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MAY 2007 6
――新開に身を転じたキッカケは?
「事件が起きたからです。 会社の寿
命は三〇年とよく言われますが、当
社の歴史を振り返っても、三〇年ご
とに大きな変化が起きています。 父
は六一歳の時に事実上、経営の前線
からは退いていました。 父には同族経
営を続けようという気は全くなく、新
開と新開ティ・エスのそれぞれに経
営を任せる後任も決まっていました。
ところが、その方たちが偶然にも相次
いで他界してしまったんです。 その方
たちが生きていれば、その後の会社の
展開も違っていただろうと言われるほ
どのキーマンたちでした」
「父には大変なショックだったよう
です。 その後は創業時代からの番頭
格と言えるような方が引き継いだの
ですが、そのあたりから経営の方向性
が時代と少しズレていってしまう。 振
り返ると、一九九五年はそれまでの通信がインターネットと携帯電話に
置き換わっていく大きなターニングポ
イントでした。 そうした技術革新への
対応を父は強く訴えていた」
「ところが父から経営を引き継いだ
経営陣は株式投資や土地・建物など
の資産に固執する傾向が強く、テク
ノロジーへの理解が少し足りないよう
でした。 業績もふるわない。 どうもお
かしい。 そこで再度、父は社長職に
技術の変化を読む
――新開の創業は明治に遡る。 陸運
業界では指折りの老舗です。
「来年でちょうど創業一〇〇年になり
ます。 私の父方の祖父に当たる河守
浩が銀座の横町(当時の銀座出雲町・
現在の銀座七丁目)に事務所を構え
て、『共同社』という運送店を始めた
のが前身です。 もっとも当時は運送
業といっても大八車の斡旋のような
仕事で、物流業としてそれなりに形
を成したのは戦後からですね」
――古賀さんは創業者と同居されて
いたのですか。 つまり物流業の家に
生まれ育った?
「そうです。 典型的な大家族でした。
ただし、私の父、創業者の長男です
が、彼は元々医師として大学で教鞭
をとっていた。 そのため私も途中まで
は医者の娘として育てられました。 と
ころがその後、私が学生の時に会社
が買収騒動に巻き込まれた。 その関
係で父は医者を辞め、祖父の会社に
急遽、身を転じたんです」
――自分が家業を継ぐとは。
「つゆほども考えていませんでした」
――古賀会長には男性の兄弟もいら
っしゃる。 それなのに女性に後を継
がせた理由は。
「向き不向きを考えたのでしょう。
新開に来る前に私がテクノロジーカ
ンパニーで働いていたこともあったと
思います。 ハイテク業界の物流はテ
クノロジーの影響をまともに受けます。
テクノロジーの変化に対応しないと生
き残れない。 加えて父は古いタイプの
人間でしたが、そのくせ男女差別の
全くない人でした。 性別、学歴、年
齢から解放されて、自由な考え方を
持たなければダメだと、よく口にして
いました。 実際、何十年も前に、父
が女性を営業所長に起用したことが
ありました。 当時としては本当に珍
しいことだったと思います」
――九九年まで古賀会長は新開の主
要荷主でもあるNECグループに在
籍されていましたね。
「大学を卒業してから九九年十二月
まで、NECさんのグループ会社で
宣伝関係の仕事に就いていました」
――最後の肩書きは?
「課長職でした」
――もともと一生仕事を続けようと
考えていたのですか。
「何も考えていなかった。 仕事に追
いかけられながら、ここまで来てしま
った、というのが正直なところです。
仕事をする上で女性を意識したこと
もほとんどありませんでした」
古賀あや
新開会長兼新開ティ・エス会長
「技術力で老舗物流業の暖簾をつなぐ」
新開グループは通信機器やパソコンなどの精密機器を専門
とする老舗物流企業だ。 創業者の孫娘が現在、その舵をとっ
ている。 浮き沈みの激しいハイテク産業にあって、荷主のビ
ジネスを理解し、技術革新にいち早く対応することで老舗の
暖簾を守っている。
(聞き手・大矢昌浩)
復帰しました。 すると事業に関係し
ない過大な負債が発覚した。 当社に
とっては大変な打撃です」
「危機を乗り切るために、あらゆる
手を打ちました。 裁判も起こしまし
た。 父には秘書がいませんでした。 そ
こで私が当時の自分の仕事の合間に、
書類の作成などを手伝っていました。
それがあったからでしょう。 九九年の
五月に父は突然、私に今の会社を辞
めて手伝えと言ってきたんです」
「もちろん悩みました。 しかも当時
の私は、あるプロジェクトの現場のリ
ーダーを任されていて、とても途中で
抜けるわけにはいかなかった。 しかし、
父の苦労も間近で見て分かっていま
す。 以前に脳梗塞も経験していて身
体のことも心配でした。 考えた末、当
時抱えていたプロジェクトが終わった
段階で会社を辞めることを決意しま
した」
――新開に転じて分かったことは?
「それまで中小企業というのはハン
グリー精神があるものだと考えていま
した。 しかし実際に蓋を開けてみると、
残念ながらそうではなかった。 規制産
業として保護されている時代が長か
ったせいなのかも知れません。 指示さ
れた仕事を一つひとつ丁寧にやると
いうことは身に付いている。 ところが、
主体的に行動することは不得意。 『何
くそ』という気概に欠ける。 中小企
業から『何くそ』をとったら何も残り
ません」
――新開に来てからの仕事は?
「本当に毎日いろんなことが起きま
した。 何より現場に影響が出ないよ
うにすることが第一でした。 とにかく
ウソをついてはいけないという父の考
えで、まずは主要荷主に事実を洗い
ざらい報告することから始めました。
主要荷主の担当役員の方は、驚かれ
はしませんでした。 父が社長に復帰
したことで、当社内で何かあったとは
感じていたのでしょう。 私が社長に就
任することについても『こういう時期
は女性の力が必要』と応援して下さ
った」
――ITバブル崩壊の影響もあって、
〇二年度は業績が落ち込みました。
「一番苦しい時期でした。 新規顧客
を開拓しなければ当社は売り上げを
維持できない。 それなのに社内には特
定荷主に依存する体質が根強く染み
ついている。 ハイテク業界は今やメー
カーの合従連衡や海外シフトが毎日のように起きている。 特定の荷主に
頼れる時代ではない。 それなのに昔か
らの拠点配置や仕事のやり方にこだ
わってしまう。 そうした体質を変える
ことに最も苦労しました」
同族経営を脱する
――今後は物流子会社や物流専業者
の買収も検討課題になるのでは。
「当社の生き残りのカギは現場にあ
ります。 現場力を強化することが最重
要課題です。 管理系、コンサルティン
グ系の会社には興味はありません。 確
かに荷主各社様の再編が進めば、短
期的には影響が避けられません。 しか
し長期的には、荷主は現場力を当グ
ループに求めているはずです」
――これまで新開はNEC、新開テ
ィ・エスは富士通と、主要荷主に配
慮して法人格を二つに分けてきました。
「その必要も徐々に薄れてきていま
す。 少なくとも同じグループの企業同
士で競合する必要はありません。 主
要荷主で法人格を分けるのではなく、
機能を横串にするかたちに整理した
ほうがいいのではないかなど、グルー
プのあり方を現在再検討しています」
――その後、お父上は〇四年に亡く
なられ、古賀会長も〇六年には社長
を退かれた。 業績は回復傾向にあり、
荷主の数も増えている。 自分の役割
は一通り終えたという認識ですか。
「最も困難な仕事が一つ残っています。
当社の歴史を振り返ると、もともと
一つだった会社が系列化の波に呑ま
れて二つに分かれた。 そして、そのま
ま三〇数年が経ってしまった。 世の
中は今や系列の時代ではなくなって
いる。 当社も機能で考える必要があ
る。 それを成し遂げた上で、当社を
同族経営から完全に脱皮させて、次
の世代にバトンを渡したいと考えています」
7 MAY 2007
こが・あや
一九五五年、東京生まれ。
新開会長、新開ティ・エス会長、エス
テーエス(STS)社長を兼務。 七七
年、聖心女子大学卒。 電気通信関連会
社勤務を経て、九九年に新開取締役お
よびSTS取締役に就任。 〇一年、新
開社長およびSTS社長に就任。 〇四
年、新開会長および新開ティ・エス会
長に就任。 現在に至る。
概要
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