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5 NOVEMBER 2010
ロジスティクスがしっかりと組み込
まれていた。 ところが日本にはそれ
がなかったと言えると思います」
「これはどこの国も同じですが、
当時の日本では毎年、戦争計画が
立てられていました。 陸軍と海軍が
それぞれ独自に計画を立て、それを
一緒に天皇に報告していた。 しかし、
それは部隊の配置と運用についての
計画であって、ロジについてはペー
パー一枚だけ。 その中身も、国民が
一丸となって節約に励み、物資動員
に全力を注ぎますといったスローガ
ン程度のものでした」
「一方、アメリカではルーズベルト
大統領が一九四一年六月に当時の陸
軍長官に対して、枢軸国と戦争にな
った場合、どれだけの兵員、武器・
弾薬、商船が必要になるのか、それ
が実際に動員できるのはいつになる
か、見積もって提出しろという指示
を出しています」
「それが後に『ビクトリープラン』
と呼ばれる壮大な戦争計画へと発展
してきました。 その計画は、枢軸国
がどのような戦略を採るかというと
ころからスタートします。 そして連
合国がそれに勝つには、どれだけの
戦力をどこに投入する必要があるの
か。 必要な兵器や物資は米国内で調
達できるのか。 それはどれだけの期
兵站計画を重視した米軍
──先生は第二次世界大戦を「グロ
ーバル補給戦」という視点から分析
されていますね。
「決戦場に相手以上の戦力を継続
的に補給できたかどうかということ
が、第二次大戦の勝敗を分けたとい
う考え方です。 それ以前の戦争は基
本的に決戦場のなかで勝敗が決まっ
ていた。 それに対して第二次大戦は、
量と質に勝る戦力を相手が倒れるま
で決戦場に送り続けることができた
ほうが勝った」
「決戦場に投入する兵器は基本的
に本国の軍需工場で生産されます。
また工場で使用する資源を、日本の
場合には南方諸島から輸送しなけれ
ばならなかった。 このグローバルに
伸びた相手の補給線を叩く。 資源を
運ぶ商船や兵士を乗せた軍船を潜水
艦や航空機で撃沈するわけです」
「さらには軍需工場そのものを戦
略爆撃で破壊する。 それに対抗す
るには防空が重要になるわけですが、
日本の場合には『B
29
』(米軍の主
力戦略爆撃機)に対抗できる手段が
事実上なかった。 高度一万メートル
からの爆撃なので高射砲では打ち落
とせない。 航空機もやっと届くとい
う高さで、お話にならなかった」
──グローバル補給線という視点に
立つと、日本の真珠湾攻撃は相手の
ロジスティクスの足を止めるという
意味で有効な作戦だったのでは。
「しかし、真珠湾攻撃では造船所
や補給タンクに手を付けなかった。
それが後のミッドウエイ海戦に効い
てくる。 ミッドウエイ海戦に参加し
たアメリカの空母『ヨークタウン』は、
その一カ月ほど前の珊瑚海海戦で被
弾し、本来であればミッドウエイに
は間に合わないはずでした」
「ところが、米太平洋艦隊司令長
官のチェスター・ニミッツ大将はヨ
ークタウンを真珠湾のドッグに入れ
て猛烈な勢いで修理して間に合わせ
た。 その結果、アメリカの空母は『エ
ンタープライズ』『ホーネット』と合
わせて三隻になった。 一方の日本海
軍の空母は『赤城』、『加賀』、『蒼龍』、
『飛龍』の四隻。 ヨークタウンが間に
合わず、三対四が二対四になってい
たら戦況も違ったものになっていた
と言われています」
──日本の敗戦はやはりロジスティ
クス軽視が大きかったのでしょうか。
「いくら壮大な戦略を立ててもペ
ーパープランでは意味がありません。
その点で当時の米国の戦争構想には
防衛大学校 荒川憲一 教授
「グローバル補給戦の教訓を活かせ」
第二次世界大戦は連合国と枢軸国によるグローバル・ロジスティ
クスの闘いだった。 日本軍がその認識を持っていれば、戦争の結果
もまた違ったものになっていた可能性がある。 今日の市場競争もグ
ローバルに拡大したサプライチェーン間の競争としてとらえることで、
新たな展開が見えてくる。 (聞き手・大矢昌浩)
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は既に詳しい分析を行っている学術
論文が出ています」
──ユーラシアを挟み込むにはソ連
を攻め落とす必要があります。
「それをやるのは日ソ中立条約を
日本が自ら破ることになるので、昭
和天皇は認めなかったと思います。
しかし、もう一つ、ヨーロッパとア
ジアを南方で結ぶという方法はあっ
た。 当時のインド、イラク、イラン
はすべて反英国家で、独立運動の最
中にありました。 彼等と手を結ぶこ
とはできた」
「当時、イギリスは中東に六五万
人もの大部隊を置いていました。 し
かし地中海は枢軸国が抑えていまし
たから、中東への補給ルートは大西
洋側からアフリカ大陸をぐるりと回
るほかなかった。 この補給ルートを
枢軸国が叩けば、中東にいる連合国
の部隊は孤立する」
「そのためにドイツ軍のクルト・
フリッケ海軍作戦部長は四二年春に、
当時の野村直邦海軍中将に共同作戦
を打診しているんです。 大西洋側の
ルートをドイツが叩くので、日本に
インド洋側を叩いてくれという話で
した。 しかし、日本はこの要請を断
った」
──インド洋に大部隊を派遣するこ
と自体が不可能だったのでは。
間で生産できるのか。 一つひとつ詰
めている。 その結果、枢軸国に勝つ
のは可能だ。 ただし、必要な物資が
揃うのは四三年の半ばになる。 従っ
て連合国が攻勢をかけるのはそれ以
降だ、という答申を四一年末に出し
ています」
──しかし、日本も戦争に突入して
以降は、それなりの兵站計画を持っ
ていたのでしょう。
「それについて私自身かなり調べ
たのですが、ビクトリープランに相
当する計画は見当たりませんでした。
ただし、枢軸国でもドイツは比較的、
兵站を重視していたようです。 実際、
ドイツは戦時経済のパフォーマンス
が非常に良かった。 現場と上層部で
情報が共有化されていたことが大き
かった。 その工場がどれだけの生産
能力を備えているかという情報を上
層部が正確に把握していました。 そ
のために手持ちの資源を有効活用す
ることができた。 統制経済が上手く
機能していたと言えるでしょう」
「その点で日本はドイツと対照的
でした。 日本の『物資動員計画』で
は鋼材を始めとした資材を、まず陸
軍と海軍、そして民需の三つに分け
る。 しかし陸軍と海軍で鋼材の奪い
合いになって、民需に回す分が極端
に削られてしまった。 一方、陸軍や
海軍は鋼材を確保したものの、それ
を加工する工場がない。 結果として
兵器が不足しているにもかかわらず、
材料が余っているという状況に陥り
ました」
SCM不在の代償
──サプライチェーン上の制約がマネ
ジメントされていなかったわけですね。
「そのために、日本では統制経済
下で生産性がどんどん下がって行っ
た。 銑鉄や鋼の生産は上がっている
のに鋼材の生産が上昇しない。 だか
ら兵器が作れない。 また民間の造船
所に艦艇ばかり作らせた結果、輸送
船が足りなくなってしまった。 『戦
時標準船』と呼ばれる民間の輸送船
の量産が遅れ、輸送能力が圧倒的に
不足してしまった。 ようやく量産に
こぎ着けた頃には、日本が資源を依
存する南方の海域は連合国の支配下
に置かれ、補給ルートが断たれてい
た。 あらゆるところでミスマッチを
起こしていました」
──そもそも日本に勝てる見込みは
あったのでしょうか。
「当時の日本軍に米国本土まで攻
め込む力はありませんでした。 ドイ
ツにしても北米大陸を占領する力は
ない。 従って枢軸国が連合国に勝て
る要素はなかった。 それでも、ドイ
ツがイギリスを破ればアメリカは恐
らくやる気をなくし、有利な条件で
講和に持ち込めるだろうと日本は考
えていたようです」
「また当時のアメリカは大艦隊の
整備計画を進めていました。 それが
完成してしまえば日本は歯が立たな
くなる。 ただし、戦艦は建造に四年
かかる。 その前に既存の太平洋艦隊
を叩き潰せば当面アメリカは戦争が
できなくなる。 講和にも応じるだろ
う。 それが山本五十六の思想でした。
短期決戦・早期和平です。 日本の戦
争計画担当者はドイツが負けること
は想定していなかった。 勝てなかっ
た場合でも完全降伏はないと考えて
いたようです」
──日本軍が第二次大戦をグローバ
ル補給線という戦略思想でとらえて
いれば、戦争の勝敗も違っていた可
能性はあったのでしょうか。
「日本とドイツが連携することで、
連合国に勝てないまでも負けないよ
うにする、引き分けに持ち込む方法
はあったと思います。 結論から言え
ば、ドイツと日本がユーラシア大陸
をまたいで結合し、北極を挟んでア
メリカ大陸と向き合う。 そのかたち
に持ち込めれば連合国はノルマンデ
ィー上陸作戦のような侵攻作戦がほ
とんどとれなかった。 それについて
7 NOVEMBER 2010
「インド洋でポイントになるのはマ
ダガスカル島のディエゴ・スワレスと
いう良質な軍港でした。 当時のマダ
ガスカルはフランス領で、フランスは
ドイツの占領下でしたから、日本海
軍がディエゴ・スワレスを利用する
ことは不可能ではなかった。 ディエ
ゴ・スワレスを基地にすれば、連合
国の補給ルートを断つのは容易でし
た。 しかし、当時の日本にはそうし
た発想はなかった」
「逆にそれを最も恐れていたのが
イギリスでした。 そのことはイギリ
スの『公刊戦史』にもはっきりと書
かれています。 そのためイギリスは
四二年五月に三個歩兵旅団という
大部隊をディエゴ・スワレスに派遣
している。 グローバル補給戦という
するだけではなく、その商品を生産
している工場、部品や材料の調達先
まで、サプライチェーンの全体を見
て競争相手を分析する。 どこで競争
が起きているのか、何が勝敗を左右
するのかを従来よりも広い視野から
考える」
「価格、品質、納期、ブランド等々
の競争力がどのような要素から成立
しているのか。 それを見極めたうえ
で自社のサプライチェーンを強化す
ると同時に、場合によっては競争
相手の弱点を叩く。 競争のポイント
となる部品会社を買収したり、材
料を買い占めたりすることによっ
て、相手のサプライチェーンの流れ
を断ち、相対的な優位性を獲得する。
そうしたビジネス上の?戦略爆撃?
も既に行われているのではないでし
ょうか」
※本インタビューは教授個人の見解を述べ
たものであり、所属組織の意見・方針
とは無関係です
戦争のあり方を十分に理解していた。
また米軍は四二年秋にアフリカに上
陸しています。 そのため枢軸国が補
給ルートを叩くチャンスがあったの
は四二年の上半期に限られる。 しか
し、そのタイミングで作戦を実行し
てれば、その後の戦局は大きく変わ
っていたはずです。 この考えはよく
荒唐無稽と批判されます。 確かに難
しかったことは認めますが、不可能
ではなかったと思います」
ロシアに勝ち米に負けた理由
──そもそも日本では軍事ロジステ
ィクスの研究がほとんど進んでいな
いようです。
「戦時中の経済、あるいは戦時経
済がその後の経済にどのような影響
を与えたのかといったテーマであれ
ば、日本にも研究者はたくさんいま
す。 しかし、戦争の勝ち負けに関わ
る問題として、経済的側面から戦史
を研究している研究者は少ない。 戦
争の意思決定者がロジスティクスを
どう考えて、どう関わったのかとい
うことは、これまであまり研究され
てきませんでした」
──なぜ先生は、そこに興味を持た
れたのですか。
「戦史研究のアプローチは大きく
二つあります。 一つは?治乱興亡の
跡をつまびらかにする?というやり
方です。 戦争を引き起こした原因は
何か、戦争のかたちはどうだったか、
その結果がその後にどのような影響
を及ぼしたのかという、歴史学のオ
ーソドックスなアプローチです」
「しかし、戦争には一般的な歴史
と違って、もう一つ勝ち負けという
問題がある。 なぜ日本は米国に負け
たのか。 その前の日露戦争で日本は
負けなかった。 当時のロシアは大変
な大国でした。 太平洋戦争開戦時の
米国のGDPは日本の五・四倍(マ
ディソン推計)、銑鉄の生産量は七・
四倍です。 日露戦争の場合のロシア
はGDPこそ日本の三倍ですが、鉄
の生産量に至っては百倍以上でした。
二つの戦争の国力比に大きな違いが
あったわけではない。 それなのにな
ぜ第二次大戦では大敗したのかとい
う素朴な疑問が出発点でした」
──グローバル補給戦の概念はビジ
ネス・ロジスティクスを考える上で
も示唆に富んでいます。
「ビジネス・ロジスティクスについ
て私は全くの素人ですが、サプライ
チェーンが海外に広く伸びた現在の
企業間競争をグローバル補給戦とい
う視点から検討することは無意味で
はないように思います。 最終的に商
品を販売している市場のなかで競争
北米大陸
ユーラシア大陸
アフリカ大陸
英国
インド洋
ディエゴ・スワレス港
(現在のアンツィラナナ)
大西洋
英軍65万
連合国補給ルート
あらかわ・けんいち
1947年生まれ。 一橋大学
卒。 同大学院経済学研究科
博士課程単位修得退学。 経
済学博士。 72年 陸上自衛
隊入隊( 2 等陸士)。 96
年、防衛研究所戦史部所員・
主任研究官( 1 等陸佐)。
2003年、防衛大学校助教
授。 09年、同教授。 現在に
至る。 専門は戦争史、戦争
と経済。
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