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FEBRUARY 2003 84
EXEテクノロジーズ
津村謙一 社長
米WMSベンチャーのネプチューン社(現・
EXEテクノロジーズ)と富士ロジテックとの
合弁でシンガポールに設立した現地法人トライ
トンは、予想以上の滑り出しを見せた。 その成
功を引っさげ九六年の東京国際物流展にWM
S「トライデント」を展示し、日本市場への参
入に駒を進めた。 幸いクライアント候補の反応
は上々だった。 しかし‥‥。
日本的物流オペレーションの壁
米国製のWMSパッケージが、どこまで日本
市場に適用できるのか。 カスタマイズが必要な
のは当然としても、それがプログラム全体の
何%に及ぶのか。 本格的に日本市場に参入する
前に検証しておく必要があった。
日本企業を対象にしたアンケート調査を行い、
トライアルを実施し、徹底的に調べ上げた。 そ
の結果、一般の荷主企業であれば、米国で使用
しているパッケージをそのまま日本に持ち込ん
でも二〇〜三〇%の手直しで済むという感触を
得た。 悪くない数字だ。
ところが物流業者、それも我が富士ロジテッ
クの現場から上がってきた報告に、我々は大き
なショックを受けた。 荷主企業では良くとも、
日本の物流業の現場では一五%程度しか使え
ないというのだ。 プログラムの八五%に手を入
れるのでは、パッケージの意味がない。
様々な企業の荷物を扱う物流業者の現場オ
ペレーションと、荷主企業のオペレーションに
は大きな違いがある。 そこで必要とされるデー
タも異なる。 しかも日本の物流業のオペレーシ
ョンは、属人的で標準化されていない。
米国のパッケージを日本に当てはめることが
容易でないことは、はじめからある程度は覚悟
していた。 しかし、米国では多くの3PLや物
流業者が実際にトライデントを利用している。
日米で物流業者のオペレーションが、そこまで
大きく違っているとは思ってはいなかった。
米国のパッケージをそのまま日本の物流業に
適用して、オペレーションのほうを標準化して
しまうというやり方も不可能ではないだろうが、
それでは日本の物流現場の「良さ」を殺してしまうことになりかねない。 日本市場への本格参
入は仕切り直しを迫られた。
ちょうどこの頃、富士ロジテックの社内では
我々のITプロジェクトとは別に、海上貨物の
フォワーディング事業への進出が検討されてい
た。 私はその計画に反対だった。 海貨事業が端
から見るほど容易ではないことを、肌身に染み
て知っていたからだ。 むしろ富士ロジテックは
そうした物流のハードではなくソフト、ITを
武器に事業展開を図ったほうがいい。 しかし私
の意見は却下された。
結局、こうした方向性の違いが明らかになっ
てきたことをキッカケに、私は富士ロジテック
と袂を分かつことになった。 退社するにあたっ
【第10回】
日本市場進出とITバブル
PROFILE
つむら・けんいち1946年、
静岡県生まれ。 71年、早稲
田大学政治経済学部卒。 同年、
鈴与入社。 79年、鈴与アメ
リカ副社長就任。 フォワーデ
ィング業務、3PL業務を展
開。 84年、米シカゴにKRI社
を設立し、社長に就任。 自動
車ビック3、IBM、コンパッ
クといった有力企業とのビジ
ネスを経験。 92年、富士ロ
ジテックアメリカ社長に就任。
98年、イーエックスイーテ
クノロジーズの社長に就任。
現在に至る
85 FEBRUARY 2003
て鈴木威雄社長には、ずいぶんと叱られた。 当
然だろう。 私にとって鈴木社長は上司であると
同時に、気の合う友人であり尊敬できる先輩で
あった。 鈴木社長がいなければ、私が米国から
帰国し、富士ロジテックで働くことはあり得な
かった。 今頃は、ロスアンゼルス当たりのメー
カーかどこかで働いていたことと思う。
私が米国の3PL市場で、試行錯誤を繰り
返しながらも、常に前を向いて活動することが
できたのは、鈴木社長という高い先見性を持っ
た、日本の物流業界には希有な経営者がいたか
らに他ならない。 違う道を行くことになったと
はいえ、鈴木社長には今も心から感謝している。
日本市場へ捲土重来
さて、富士ロジテックを離れた私はレイモン
ド・フッドと共にWMSの世界にどっぷりとつ
かることになった。 世界各国の物流現場でWM
Sのノウハウを蓄積し、それをパッケージに反
映させていった。 そして改めてレイモンドと東
京に舞い戻ったのが九八年三月のこと。 日本の
現地法人の設立がその目的だった。
もっとも二〇年近くにわたり米国を本拠地と
してきた私には、日本人とはいえ東京の土地勘
がない。 そこでロスアンゼルスのJETRO
(日本貿易振興会)に相談したところ、非常に
親切に世話してくれた。 赤坂のJETROの事
務所にとりあえず机を置け。 日本法人の立ち上
げを手助けするコンサルタントも付ける。 しか
も全て無料だという。 結局、赤坂のJETRO
には四カ月間、机を置いた。
その間に東京ディズニーランドに近い新浦安
に現在のオフィスを確保。 九八年七月に正式に
営業を開始した。 もっとも当時、EXEテクノ
ロジーズの米国本社は株式公開を控えていた。
その審査の関係で日本法人の広報活動は一切
禁じられていた。 そのため九八年十一月に活動
が解禁になるのを待って、マスコミや業界関係
者を招いてEXEの日本進出を発表した。
前に説明したように、我が社が日本企業を相
手にWMSを販売するのはそれが初めてではな
かった。 シンガポールの現法で日系のハイテ
ク・家電メーカーが既にユーザーになっていた。
しかし、同じ会社でも日本国内となるとハード
ルの高さが違ってくる。 これらのメーカーの国
内の物流現場には皆、自社開発したレガシーの
システムが入っている。
むしろ日本国内ではハイテク系メーカーでは
なく、日用雑貨品や加工食料品などのリテール
系の企業がはじめに顧客になってくれた。 EX
Eが米国で買収した「ダラス」というパッケー
ジソフトは、それだけ日本のリテール業界でも
知名度が高かったのだ。 海外の既存ユーザーを
除くと、外資系飲料メーカーが日本人顧客第
一号だった。 ドラッグストアチェーン店、スズ
ケン、大日本印刷などが導入し、近鉄航空、鈴
与フリッツ、BAXグローバル、伊藤忠倉庫、
日本通運と続いた。 約一五社の3PL・物流
企業が導入を決定してくれた。 それに連れて次
第にハイテク系メーカーもなびいてきた。 サン
ヨーの巨大プロジェクトもスタートした。
それから二〇〇〇年までの日本法人は、あわ
ただしい日々ではありながらも、何とか日本市
場に受け入れられたと言えるほどには成果を上
げていった。 ただし、その後に起きた米国IT
バブルの崩壊は、当社の経営にも少なからず影
響した。 これを機に、ソフトウェアパッケージ
の市場自体が大きく変化してしまったのだ。
基本的に当社のようなソフトウェアベンダー
の収入源はライセンスフィーと導入等のエンジ
ニアリングフィーの二つに分けられる。 このう
ちライセンスフィーはいわば知識財であるため、
極端に言えば粗利一〇〇%のビジネスだ。 実際、
原価となるCD一枚分のコストは一〇〇円にも
満たない。 これに対してエンジニアリングは物
流業と同様に人件費がメーンのサービス業で、
マージンは大きくない。
このライセンスフィーとエンジニアリングの
事業バランスが、ソフトウェアベンダーの経営
のポイントだ。 つまり、エンジニアリングは例
え赤字になっても、ライセンスフィーで利益を
上げて、バランスをとるのである。 一つの目安
としては二つの事業がほぼ半分ずつという売上
げ構成比であれば、全体として十分な利益が出
る。 ITバブル崩壊までは、それを維持するこ
とが可能だった。
ところがバブル崩壊以降、当社に限らずソフ
トウェアのライセンスフィーの値段は急速に下
がっていった。 ソフトウェアベンダーはエンジ
ニアリングにシフトしていかざるを得ない。 現
在、当社もそうした方向にビジネスモデルの転
換を図っている。 コアとなるパッケージを素材
に、それぞれのクライアントに最適な形のソリ
ューションを一つずつ作っていくというサービ
スだ。 すなわちパッケージ販売ではなく、ソリ
ューション・ビジネスへの転換である。
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