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OCTOBER 2002 72
EXEテクノロジーズ
津村謙一 社長
かつて日本の物流企業は、そのサービス品
質で世界の頂点に立っていた。 実際、欧米の
物流企業は日系企業には全く歯が立たなかっ
た。 ところが九〇年代以降、両者の立場は完
全に逆転してしまった。 規制緩和とIT活用
に出遅れたことが、日本の物流企業の敗因だ
った。
再コンペで荷主を失う
我々、富士ロジテックの3PL部隊は手痛
い失敗も経験した。 3PLのコンセプトを社
内に十分に浸透させることができなかったこ
とが原因だった。 欧米で3PLというニュー
ビジネスが台頭したことに危機感を持ち、そ
の対応を必死になって模索している我々と、
既存の日本の物流業の常識とでは、それだけ
ギャップが大きかった。
従来の日本の倉庫ビジネスは「入出庫料」
と「保管料」のバランスで売り上げを立てて
いくという発想だった。 そのやり方で十分に
食べていけた。 最近でこそ倉庫会社も倒産す
るようになったが、当時は日本の倉庫会社で
潰れた会社など一社もないと言われるほど、
倉庫業は各種の規制に守られた安定した商売
だった。
ところが例えば我々の3PLのクライアン
トとなったデル・コンピュータでは、倉庫会
社のメシの種である「保管」ということ自体
を、そもそも罪悪として捉えていた。 いかに
「保管」を減らすことができるか。 いかに経
営のスピードを上げて、在庫回転率を上げる
かという発想に立ってマネジメントしていた。
従って、3PL側にもそうしたコンセプトに
合致したオペレーション、料金体系、組織を
求めてくる。
しかし、それは従来の日本の倉庫業の常識
とは全くかけ離れていた。 日本の倉庫会社に
とって、デルは?異質〞な顧客だった。 我々
のオペレーション担当者にとっても、デルの
仕事はただ忙しいだけとしか感じられなかっ
たようだ。 いま思えば、長年にわたって標準
タリフでビジネスしてきた人間に対して、米国の最先端のロジスティクスをすぐに理解し
ろということ自体に無理があったのかも知れ
ない。
我々がデルから受注した契約期間は二年だ
った。 当時、デルは日本向け製品をアイルラ
ンドの工場から出荷していた。 求められたリ
ードタイムは九営業日。 デルが注文を受けて、
九営業日以内に日本にいる顧客に納品するこ
とを我々はデルに保証した。 そのために我々
は輸送スペースを確保し、しかるべきサプラ
イチェーンを構築して、要求に応えた。
その後、デルは日本向け製品の出荷工場を
マレーシアに移した。 これによってリードタ
イムは九営業日から五営業日に短縮される計
【第7回】
日系物流企業が凋落した理由
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算だった。 その時に再度、デルは3PLパー
トナーの再選定を行った。 ちなみにデルのよ
うな外資系企業は通常、二〜三年に一回のペ
ースでパートナーの再選定を行うことをルー
ル化している。 いかにオペレーションが上手
く回っていようが、それまでのパートナーの
仕事に対する満足度がどれだけ高かろうが、
再選定は必ず行われる。
しかし、多くの場合は既存の協力業者がそ
のまま受注する結果になる。 パートナーの変
更は荷主にとっても大きな負担になる。 よほ
どの理由がない限り、いったん受注した3P
L契約を打ち切られることはあり得ない。 と
ころが我々はデルの再選定で仕事を失ってし
まった。
我々に代わって新たにデルのパートナーに
選ばれたのはフェデックスだった。 そのコン
ペでフェデックスがデルに提示した料金は、
当社の出した料金よりもはるかに高額だった。
それでもデルはフェデックスを選んだ。 理由
はリードタイムだった。
当時、マレーシアのクアラルンプール〜成
田線を運行する航空貨物キャリアの中で唯
一、フェデックスだけが成田に朝一番に到着
する便を運行していた。 日本航空や全日空
など当社が利用していた他のキャリアはクア
ラルンプールを朝に出発し、昼に成田に着く
便しか持っていなかった。 そのわずか四〜五
時間の違いをフェデックスは決定的な差に変
えた。
フェデックスは米国政府を通じて日本政府
に圧力をかけ、書類関係の同時通関を日本税
関に認めさせたのだ。 それまで日本では基本
的に同時通関は認められていなかった。 何時
に到着しようが通関は翌日というのが基本だ
った。 それをひっくり返したことで、フェデックスは朝一番に着いた荷物を、その日の午
後には配達することができるようになった。
すなわち他社よりも一日、リードタイムを短
縮したのだ。 この一日のリードタイムにデル
は対価を支払った。
完敗だった。 そして、さすがだと思った。
それまで我々を含めた日本の物流企業は「コ
スト」を基準に商売をしていた。 しかしフェ
デックスは違った。 彼らはまさに「バリュー」
を荷主に提供することを目指し、それを実現
した。 一日のリードタイム短縮がどれだけデ
ルにバリューをもたらすのか。 五日のリード
タイムが四日になれば単純に在庫は二割削減
される。 フェデックスはその意味をよく理解
していた。
日系物流企業の黄金時代
こうして日本の物流業関係者に私が3PL
の話をすると、よく次のように返される。 「津
村さん。 そんなことを言っても、日本には3
PLなど育つ土壌などないよ。 何より荷主に
理解がない」。 確かに日本の荷主には問題が
多い。 コスト叩きこそが物流マネジメントの
最大の目的だと解釈している荷主のマネジャ
ーが多いことは私も否定しない。
しかし、同時に日本の物流企業側にも大き
な問題があると私は考えている。 少なくとも
日本の物流企業は顧客に対するサービスを
「バリュー」という形ではとらえてはいない。
このコンセプトの違いは一般に考えられてい
る以上に大きい。 物流企業は頭のネジを切り
替える必要がある。 そうしない限り3PLを
成功させることなどできるはずもない。
欧米と比較すると、日本の現場スタッフの
仕事レベルは極めて高い。 そのことが日本の
物流企業の3PL化には、むしろ災いしてい
ると私は考えている。 かつて七〇年代後半か
ら八〇年代にかけて、日本の物流企業は積極
的に海外に進出した。 港湾地区での輸出入業
務だけでなく、各国の内陸に入り込んで倉庫
業を展開し、深く荷主企業に食い込んでいた。
当時の日本の物流企業は世界を凌駕していた
といっても過言ではないだろう。
その時代に私は鈴与の社員として米ロスア
ンゼルスで日本のダイエーの仕事をしていた
ことがある。 ダイエーのバイヤーが現地で買
い付けた商品をロスの倉庫に集約し、日本に
輸送する業務だった。 調達先メーカーから鈴
与の倉庫までは陸上輸送なので、高さ十二フ
ィート・長さ五二フィートの内陸用のコンテ
ナで荷物は納品される。 それをオーシャンコ
ンテナに積み替えて日本に出荷するという仕
事だ。
調達先から入荷したコンテナの中身を我々
がカウントして、伝票通りに数が合ったこと
は一度もなかった。 つまり調達先は納品数を
いつも間違えているのである。 仕方がないの
で、それを当方で勘定し直して製品リストを
作り、それを調達先へ送る。 しかし、向こう
側ではとくに驚くこともなく、五%ぐらいの
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間違いは誤差の範囲という程度の認識しか持
っていなかった。
日本ではとても通用しない話だが、米国の
ビジネスではそれが普通だった。 しかし、そ
んな品質では日本の厳しい税関も荷主も許し
てくれない。 そこで私を含めた日本人スタッ
フが南米系移民中心の現場作業員に混じって、
シャツ一枚で汗だくになりながら現場作業に
追われていた。
これは別に鈴与だけの話ではない。 その頃
に日本から現地に派遣された物流マンは皆、
似たような経験をしているはずだ。 それだけ
に日本の物流業者と現地の物流企業とでは品
質に格段の差があった。 そのため海外に進出
した日系企業は現地でも日系物流業者を使い
たがった。 実際、必ず使っていた。
規制緩和とITで出遅れた日本
当時、米国の物流業はまだ厳しい規制下に
置かれていた。 3PLはおろか鉄道、トラッ
ク、倉庫と、輸送モード・機能ごとに物流業
者の顔ぶれがハッキリと区分されていた。 複
数の機能やモードをカバーしている総合物流
企業など一社もなかった。 港湾業は既得権に
守られた倒産の心配のない安定業種であり、
トラック輸送に新規に参入することは事実上、
許されなかった。 それだけ当時の米国の物流
市場は硬直化していて、ユーザーにとっては
使い勝手が悪かった。
ところが七八年頃から米国では物流業の規
制が段階的に緩和されていった。 その結果、
米国の物流市場の構造は大きく変化した。 自
治体からターミナルを賃貸している老舗の港
湾業者がいくつも倒産するようになった。 自
治体は港湾業者に対して、ターミナルを貸与
する条件として年間取扱量の最低ラインを港
湾業者に保証させた。 その条件を満たせなか
った業者が次々にターミナルから締め出され
たのだ。 代わって新しい業者がターミナルの
借り手として名乗りを挙げる。 そんな新旧交
代が日常的に発生した。
トラック運送業も同様だ。 これまで新規参
入などほとんどなかったこの分野に、多くの
新興企業がなだれ込むようになった。 その煽
りを受けて、老舗のトラック業者の多くが破
産に追い込まれ、市場の新陳代謝が活発にな
っていった。 つまり規制緩和によって米国の
物流業界に市場原理が働くようになっていっ
た。
さらにその後、ITが劇的な進化を遂げ、
それを本格的に物流管理に適用することで、
米国の物流企業はサービスの品質を向上させ
ていった。 彼らは規制緩和とITを活かして、
人間の経験や勘に頼らないオペレーションを
作り出すことに力を入れた。
しかし優秀な現場スタッフを抱えていた日
本の物流企業は、彼らをキャッチアップしよ
うとはしなかった。 この違いが両者の立場を
逆転させた。 あっという間に日本の物流企業
はかつての地位を失い、3PLを始めとする
欧米の物流企業にその地位を奪われることに
なってしまった。 そしてITが進化していく
とともに、両者の差はどんどん拡がっていく
ことになった。
PROFILE
つむら・けんいち1946年、静
岡県生まれ。 71年、早稲田大学
政治経済学部卒。 同年、鈴与入
社。 79年、鈴与アメリカ副社長
就任。 フォワーディング業務、3
PL業務を展開。 84年、米シカ
ゴにKRI社を設立し、社長に就任。
自動車ビック3、IBM、コンパッ
クといった有力企業とのビジネ
スを経験。 92年、富士ロジテッ
クアメリカ社長に就任。 98年、
イーエックスイーテクノロジー
ズの社長に就任。 現在に至る
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