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75 AUGUST 2001
瀬島龍三信者はまだまだ多いらしい。 しか
し、伊藤忠にしがみついたその老害ぶりを、
信者たちは多分ご存じないのではないか。 そ
れとも、瀬島自身と同じように、瀬島センセ
イにはいてもらうだけでも役に立つと思って
いるのだろうか。
『黙』というヘンな雑誌の六月号で、その瀬
島が「日本再誕への道」を語っている。 それ
を斜読していて、瀬島が?住友の西郷隆盛〞
と言われた伊庭貞剛の伝記『幽翁』を必死に
探したことを知って驚いた。
戦後どうするか決めかねていた時に、伊庭
を尊敬していた瀬島がその本を探しまわった
というのである。 私が「驚いた」のは、住友
の二代目総理事の伊庭は、老害を一番嫌った
からだった。 まさに、瀬島のように年を取っ
ても大きな顔をしている人間を排斥したので
ある。 私自身、老害批判にしばしば伊庭の言
葉を引くだけに、いささか開いた口がふさが
らない思いがした。
井原甲二という『黙』主幹の問いに答えて
瀬島はこう語っている。
「伊庭貞剛さんの書籍との出会いというのは
結構古いんです。 大本営に勤務していたとき
に当直というものがあって、そんな晩は図書
室に行って、読みたい本を当直室に持ってき
て読んでいた。 そのときたまたま、明治時代
の住友財閥を取り仕切っていた伊庭貞剛さん
の伝記『幽翁』に出会った。 それが非常に印象に残ってまして、帰国するとその本をもう
一度読みたいという思いが無性につのりまし
てね。 ところが九段下の古本屋へ行って探し
てもなかなか見つからない。 いろいろ考えた
末、そうだ『住友』と名のつく会社へ行けば
あるかもしれないと、ある日、丸の内のオフ
ィス街に出かけました」
伊庭は、自分だけは別とは考
えない人だった。
そこがまず、瀬
島とは決定的に
違う。
そして、足尾
銅山の鉱毒問題に対し、徹底的に闘った田中
正造が、伊庭が経営していた別子銅山につい
ては「別子は鉱業主住友なるもの、社会の義
利をしり徳義を守れり。 別子は鉱山の模範な
り」と折り紙をつけるほど、社会性があり、
先を見通していた。
住友の常務理事を務め、歌人としても著名
だった川田順がその著『住友回想記』で次の
ように書いている。
〈東海道列車が瀬田の鉄橋を通過する際、車
中の住友人は大抵の場合、顔を窓ガラスに押
し付けて唐橋の下流を眺め、右岸の、小高い
山のみどりに目を凝らして、「あすこが伊庭さ
んの亡くなられた別荘だ」と、なつかしく思
い出すものらしい。 それ程に伊庭貞剛は人望
があった〉
伊庭は「少壮と老成」と題した一文で「事
業の進歩発達に最も害をなすものは、青年の
過失ではなくて老人の跋扈であり、老人は少
壮者の邪魔をしないようにするということが
一番必要だ」と喝破しただけに、その出処進
退は実に見事だった。
伊庭はまた、「人間、最も大切なことは後継
者を選ぶことだ。 また、後継者にいつまでも
事業を引き継がないのは自分が死ぬことを忘
れた人間だ」と痛烈に指摘した。
つまりは、「自分が死ぬことを忘れた」かの
ような瀬島とは対極に位置する人間だったの
である。 何と人は自分に都合よく先人の生き
方や言葉を解釈するものだろうか。
「儲け本位じゃない人でしたね」と伊庭を追想する瀬島の言葉は、私には寝言としか聞こ
えない。 政界の中曽根康弘と同じように、瀬
島の如き「老人の跋扈」が国を誤らせている
のである。
とは言ってもウヌボレの強い瀬島や、それ
を持ち上げる『黙』のような雑誌の編集者お
よび読者の耳には、おそらく批判は届かない
だろう。
KSD疑惑で捕まった村上正邦や小山孝雄
らは愛国心を強調した。 ことさらにそれを言
う者は、むしろ、ウサンくさいのである。 瀬
島は村上らと同類ではないか。
佐高信
経済評論家
瀬島龍三を持ち上げる月刊『黙』
老人の跋扈に無批判なヘンな雑誌
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