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佐高信
経済評論家
49 JULY 2005
『週刊金曜日』六月三日号の特集タイトルは
「懲りない武富士 変わらぬマスコミ」で、冒
頭に三宅勝久の「朝日新聞が武富士に屈した
日」が来る。 「屈した」は過去形だが、何とそ
れはいまも続いているのである。
「『朝日新聞』にその後も(武富士の)広告
が載っているのを見て驚きました。 ジャーナ
リズムの良心にかけて問題企業の広告を中止
して欲しいと訴えたんですが‥‥」
武富士被害対策全国会議代表の新里宏二
(弁護士)は三宅にこう語ったという。
「編集協力費」の名目で五〇〇〇万円を受け
取っていながら、武富士の名前を出さず、問
題になった朝日は、武富士がフリーライター
の山岡俊介らを盗聴していたことを忘れたの
か。 私は三宅に「朝日が総会屋になった日」
という観点から書けばよかったのではないか
とさえ言いたくなる。
その三宅の盟友、北健一の『武富士対言論』
(花伝社)は、朝日を含む言論の没落を伝えて
迫力がある。 しかし、それは読者を悲しくさ
せる迫力である。
第一章の「ドキュメント武富士裁判」には、
返済義務のない「第三者」の母親から、武富
士が子どもの借金を取り立てた話が出てくる。
病気持ちで年金生活をしているBと、昆布
漁や水産加工工場で働きながらようやく暮ら
しを立てているSという二人の母親は、それ
ぞれ弁護士に委任して武富士を相手に損害賠償請求の訴えを起こした。
「どちらも生活に余裕がなかった。 もし武富
士が、親には支払い義務がないと正しく説明
していたら子供の借金など払わなかったとい
う二人の訴えが、三宅(勝久)の胸にすとん
と落ちた」
北はこう書いている。
『週刊金曜日』編集長の北村肇と北は、『金
曜日』に書いた記事で武富士に訴えられた三
宅らを支援する会をつくろうと話し合う。 北
の怒りを引く。
「私が特に許せなかったのは、取材にも応じ
ず、記事が出たらいきなり訴えるという態度
だった。 同じように武富士を批判する記事を
書いても、『中日(東京)新聞』も『週刊文春』
も『しんぶん赤旗』(日本共産党機関紙)も訴
えず、もっぱら中小メディアとフリーライタ
ーを狙い撃ちしたことも理不尽に感じた」
そして判決が出る。 裁判長は、武富士の盗
聴について、「会社の財力に物を言わせ、社内
での圧倒的な地位を利用し、武富士に都合の
悪い記事の背後関係などを探るため、違法か
つ悪辣な手段に訴えたもので、厳しい非難に
値する」と断罪した。
そんな武富士の広告をそのまま出しつづけ
る『朝日』はプライドも何もなくしたのか。
北は武富士マネーに群がったマスコミ業界
の腐敗の例を次のように抽出する。 内部から
持ち出された「マスコミ接待リスト」によっ
てである。
●一九九六年八月六日、赤坂新羅で会食し七
万四二〇〇円。 日経編集局次長、日経兜町
クラブキャップを武富士常務が接待。
●同年八月二三日、弁慶で会食し約六万円。
朝日新聞論説委員を常務が接待。
●一九九七年一月三〇日、千山閣で会食後、ク
ラブ・ルポアールへ繰り出し約九万円。 週刊
ポスト副編集長を常務と広報課長が接待。 いわゆる大手メディアはこのように接待し、
中小メディアは脅すというのが武富士の戦略
だったのだろう。 『ベルダ』という雑誌の「武
富士がつけたマスコミ人の偏差値」なども訴
えられている。
しかし、武富士の暗部がマスコミのタブー
となったのは「電通の力」抜きには考えられ
ない、と北は指摘する。 武富士会長の武井保
雄と電通のドン成田豊は親しく、定期的にゴ
ルフをする仲だった。 成田は武富士の「慶弔
見舞ランク一覧」にも登場するというが、さ
ぞ上位なのだろう。
いまだに続くマスコミの武富士?汚染〞
大手は接待し中小は脅しメディア操縦
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