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NOVEMBER 2006 52
竹中平蔵?学者大臣〞
竹中平蔵氏が任期途中で参議院議員を辞めたことが大き
な波紋を生んでいる。 小泉内閣が終わるのを待って、まだ二
年余りしかたっていないのに参議院議員を辞めようというの
だから、これほど選挙民を馬鹿にした話はない。
大臣を辞めるのは勝手だが、選挙で選ばれた議員が任期
途中で辞めるというのは、汚職や選挙違反で摘発されるか、
あるいは病気、それも重病にでもなれば別だが、それ以外に
は考えられない。 ところが竹中氏は「小泉内閣の終焉をもっ
て、政治の世界における役割は終わる」という理由で辞めた
のである。
これについて「朝日新聞」(二〇〇六年九月二九日)の社
説は、比例区で七二万票もの個人票を集めた者が任期途中
で辞めるのは無責任だと批判している。 この議員辞任につい
て同じ「朝日新聞」の九月十六日付けの記事は、これは「安
倍新政権に距離を置こうとしているためだ」と書いている。
しかし週刊誌などは逆に「竹中氏が安倍政権になっても院
政をしこうとしているためだ」としている。
どちらがホンネかわからないが、この事件は竹中平蔵氏個
人の責任問題であるだけでなく、いわゆる?学者大臣〞、あ
るいは?学者政治家〞のあり方に関わる問題でもある。
竹中氏は二〇〇一年に小泉内閣の経済財政政策担当大臣
として、慶應大学教授から入閣し、「学者が大臣になった」
ケースとして当時大変な話題になった。
それ以後、小泉内閣の重要閣僚というよりも、小泉改革
の看板としてマスコミでたえず人気を集めた。 最後は総務相
として郵政民営化を強引にやろうとして官僚たちの抵抗に
あい、その影響力は低下したといわれた。 しかしこれだけ
?学者大臣〞が政治の世界で注目されたことはこれまでな
かった。 そこで問われているのは?学者大臣〞とはいったい
何かということである。
どれだけ?学〞があるのか?
戦後まもなくの頃、中山伊知郎一橋大学教授や東畑精一
東大教授、有沢広巳東大教授などが吉田内閣の顧問格とし
て活躍したことがあったが、その時、彼らは大臣にはならな
かった。 ところが一九九〇年代ごろから大学教授が政府の
経済財政諮問会議の議員や内閣府の政策統括管、あるいは
大臣官房審議官などになり、そして竹中氏が経済財政政策
担当大臣になった。
『論座』(二〇〇一年一〇月号)はこの問題を特集し、竹
中氏にインタビューしている。
そのなかで竹中氏はこう語っている。
「私も学者だから分かるのですが、学者というのはいわば
美学の世界に住むことができる」「学者が政府内に入ることの明らかなメリットの一つは、
『こんなことをしたら政治生命が終わりだ』という発想がな
いことです。 実際、私には政治生命は関係ない。 私は小泉
さんに頼まれたからやっているだけであって、やるべき仕事
を終えれば、一刻も早く大学に帰りたいと思っていますよ
(笑い)」
日本語で学者というのは学問をしている人という意味と
同時に、「学のある人」という意味でもある。 自分で「私は
学者だ」というような人はよほど学のある人か、それとも日
本語を知らない人のどちらかである。
竹中氏がどれだけ学があるのか、学者としてどれだけの業
績があるのか、聞いてみたいものだ。
彼が日本開発銀行の設備投資研究所にいたころ、『研究開
発と設備投資の経済学』という本を出したが、それは同僚
と二人で研究したものを、自分ひとりの名前で出したという
ので問題になったことがある。
その後評論家として名前を売ったが、どのような学問的
業績があるのか、聞いたことがない。
経済学の危機が言われるなか、日本では経済学者が実際の政治に関わるよう
になってきた。 それは経済学の復権を意味するのか、あるいは逆にそれこそが危
機を現しているのだろうか?
53 NOVEMBER 2006
経済学の危機
竹中氏は前記のインタビューのなかで?御用学者〞とい
う言葉を使っているが、御用学者は単に権力に利用される
だけでなく、学問自体を堕落させる。 このことは戦時中の御
用学者のことを思い出すだけでもわかるし、外国にもその例
は多い。
アメリカの経済学はすぐれていると一般には考えられてい
るかもしれない。 しかし経済学は危機に陥っていると有名な
経済学者である宇沢弘文氏は言っている。 そして亡くなっ
た森嶋通夫ロンドン大学元教授も、一般均衡理論がリアリ
ティを失って危機に陥っていると言っている。
森嶋通夫、宇沢弘文ともに世界的に知られた数少ない日
本の経済学者である。 この人たちが経済学は危機に陥っていると言っているにもかかわらず、その経済学者たちが政治
の世界で活躍するというのはどういうことか。
宇沢弘文氏は『現代』(二〇〇六年四月号)で哲学者の梅
原猛氏と対談しているが、そのなかで「経済学は社会の病
気を治すどころか、むしろ病気を作っていますね。 経済学が
社会を破滅に陥れているという印象を強くもつようになりま
した」と語っている。 そのような経済学者が政権に加わり、
政策を作っていくということは、それこそ「社会を破滅」に
陥らせることになる。
?御用学者〞たちにはそういう意識はない。 ただ、世間はこ
ういう状況を見ているから、だんだん学者を信用しなくなる。
最近、大学で経済学部への入学志願者が減っているという
ことが問題になっているが、若者たちにとってこのような経
済学は人気がないし、そのような経済学者を尊敬する気が
なくなっているのだ。
?御用学者〞はこうして自らの学問自体を駄目にし、やがて
世間からも見捨てられていく運命にある。 これこそ学問の危
機以外のなにものでもない。 王様は裸なのだ。
おくむら・ひろし1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷
大学教授、中央大学教授を歴任。 日本
は世界にも希な「法人資本主義」であ
るという視点から独自の企業論、証券
市場論を展開。 日本の大企業の株式の
持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判
してきた。 近著に『株式会社に社会的
責任はあるか』(岩波書店)。
宣伝用経済学者
その竹中氏は前記のインタビューのなかで、これまで日本
の「近代経済学者は、マル経(マルクス経済学)学者から、
『御用学者』と批判されるのを恐れて、現実の場から極度に
遠ざかろうとしていた時期があった」と言い、これからは学
者にも知的企業家精神が求められるとして、学者が大臣に
なる時代がきたかのように語っている。 アメリカでは早くか
ら学者、特に経済学者が政権に関与するということが行わ
れているが、日本でもアメリカのように学者が積極的に政治
の世界に入っていくべきだ、というわけだ。
では、それは学者に、というより学問にとってどのような
意味を持っているのか。 古来、学問が政治の道具になると
いうことは学問の腐敗、あるいは堕落だとされてきた。 これ
は日本だけではなくアメリカやヨーロッパでも同じだ。
もともと学者は現実問題について研究するのでなく、それ
こそ竹中氏の言うように「美学の世界」に生きていた。 その
学者が現実の政治の世界に入るというのは、学者としての
力量、あるいは学問の成果によるものではない。
それは政治家が学者を看板として利用しているだけで、い
うなれば宣伝用である。 だから学者としてどれだけの業績が
あるのか、ということは問題にならず、有名大学教授である
という肩書きか、あるいはマスコミに名前が売れているとい
うことで評価される。
竹中氏だけでなく、政府にかかわっている学者のほとんど
はそういう人たちである。 それは学問とは関係ない話である
のだが、世間ではそれを誤解し、あたかも有名学者がかかわ
っている政策だから正しいと錯覚する。 そしてマスコミがそ
ういう宣伝をする。 こうして学問、そして学者が宣伝に使わ
れ、政治に利用されるということが日本でも一九九〇年代
なかばから流行するようになったが、これは日本の学問にと
ってどのような結果をもたらすのだろうか。
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