ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2007年5号
特集
女の物流力 ジョンソン・エンド・ジョンソン

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

ジョンソン・エンド・ジョンソンのビジョ ンケアカンパニーはコンタクトレンズ製品の 輸入販売を手かげる事業カンパニーだ。
一九 九一年一〇月に国内初となる使い捨てコンタ クトレンズを「アキュビュー」ブランドで市 場に参入。
その後一〇年以上にわたり毎年二 桁成長を続け、同業界の勢力図を塗り替えた。
サプライチェーンにおいても新たなモデル を作った。
医療機器の販売代理店経由で販売 店に流す既存チャネルを使わず、直販を断行 した。
販売店からメーカーが直接注文を受け て宅配便で販売店や消費者に直送する。
在庫 はすべて販売店側の買い取り。
手形や小切手 も受け付けない。
それまでの同業界の慣習を 覆す強気の戦略だった。
その立ち上げ時から、能智寿子サプライチ ェーン・品質・薬事本部ロジスティクス部長 はサプライチェーンの構築に携わってきた。
製品の企画開発から営業、カスタマーサービ スを経て、二〇〇一年からはロジスティクス 部門を統括している。
「ロジスティクス部門は地味で外から評価さ れることも少ない。
しかし、仕事の幅が広く、 スケールが大きい。
自分たちが企画したこと を、そのまますぐに実行できる。
ダイナミッ クで、これまで経験した仕事のなかでも一番 手応えがある」と今の仕事を気に入っている。
毎朝八時、部内の誰よりも早く出社する。
始業までの一時間を集中して思考する時間に あてている。
三年後に市場がどうなっている か。
自分で仮説を立て、それを数字に落とし て出荷や配送を検証する。
「先のことを常に 意識して業務を回していかないと、行き当た りばったりになってしまうから」。
この早朝の一時間が、二〇〇四年にセンタ ーの処理能力をそれまでの二倍にするプロジ ェクトを立ち上げるキッカケにもなった。
早 急に処理能力を強化しなければ、パンクする。
それが物量の検証によってはじめて分かった。
急遽センターの増強を図った。
マテハン設備 だけで約一〇億円を投じた新センターは〇六 年七月に稼働した。
ギリギリのタイミングだ った。
中長期計画の重要性を痛感した。
現場のオペレーションは全てアウトソーシ ングしている。
日常の運用面では協力物流企 業の管理がロジスティクス部の役割になる。
そのためロジスティクス部長に就任してまも なく、協力物流企業のパフォーマンスを数値 で評価し、改善を促す「サービスレベルアグ リーメント」と呼ばれるプロセスを整備した。
「感覚的に良い悪いを言っても効果はない。
誰もが客観的に理解できる指標を、サプライ ヤーとの共通言語にすることでパートナーシ ップを深めることができる。
その点、ロジス ティクスは数字に置き換えやすい」という。
一連の指標管理の取り組みは経営品質の向 上を目的とした同社の世界的な顕彰制度「プ ロセス・エクセレンス」で、ゴールド賞に次 ぐシルバー賞を受賞した。
またこの時の「パ ートナーと協働して創造した競争優位のサプ ライチェーンプロセス」は、二〇〇四年度の ロジスティクス大賞奨励賞も受賞している。
ロジスティクス・マネジメントについては 独習だ。
日本はもちろん米国本社にも決まっ た方法論はなかった。
手探りで試行錯誤した。
それでも「やっているうちに、何が大切なの か、どうすれば向上できるのか、分かるよう になってきた」と手応えを感じている。
二度目の就職で同社に入社して既に二三年 が経つ。
今や社内でも古株の一人。
その間に 双子の男の子も出産している。
長く仕事を続 けることができたのは「当社が女性にとって 働きやすい会社であるのは確か。
それでも私の時代には今のような色々な支援制度などな かった。
結局、やらせて欲しいと言ったこと を、やらせてもらえたことが一番大きかった のかも知れない」と振り返る。
子供の小さなうちは、仕事を家に持ち帰る ことも多かった。
子供が寝静まってから仕事 に取りかかることになる。
体力的にかなりキ ツイ。
「たまたま私は身体が丈夫だったから 良かったが、同じことを他の人に求めてはい けない。
早く来て早く帰る。
家に仕事は持ち 帰らない。
そのほうが集中して仕事ができる」 と部下を指導している。
MAY 2007 26 ジョンソン・エンド・ジョンソン ――常識破りの直配に挑む 第3部 能智寿子ビジョンケアカンパニーロジスティクス部長 女性幹部が仕掛ける物流改革 外資系銀行を結婚を機に退職。
2年間の 専業主婦生活を経て84年、ジョンソン・ エンド・ジョンソン薬事開発部入社。
91 年、営業部に配属。
95年1月、カスタマ ーサービス。
01年から現職。
家計簿感覚で在庫をやりくり 味の素ゼネラルフーヅ(AGF)の生販物 流部は、一九人いるスタッフのうち八人を女 性が占めている。
社内でも女性比率の高い部 署の一つだ。
「ロジスティクスは女性の特性 を生かせる分野。
在庫管理の緻密でルーティ ンなところは、家庭でお金をやりくりするの に似ている」と、同部の冨塚美佐子『味の素 基幹システム移行担当』専任課長はいう。
同社にあって冨塚専任課長は需給調整の要 ともいえる存在だ。
三〇年近いキャリアを、 ほぼ一貫して需給調整のスペシャリストとし て務めてきた。
これまでに受注センターの統 合、情報システムのグループ統合など、AG Fのロジスティクス改革のメルクマールとな る仕事をいくつも手がけてきた。
「うちのロジスティクスは彼女なしでは回ら ないと言ってもいい」と、直属の上司に当た る松林正雄部長は全幅の信頼を寄せる。
実は 松林部長は冨塚専任課長の七年後輩に当た る。
需給調整の工場側窓口として配属された 入社間もない頃から指導を受けた。
「ちょっ とアンタと怒られながら、いろんなことを教 わった」と振り返る。
現在、冨塚専任課長はグループの情報シス テム刷新プロジェクトにAGFの代表として 参加している。
合同ミーティングでも遠慮はしない。
親会社にとっては言われたくないよ うなことも率直に指摘する。
「進行役がヒヤ ヒヤすることもしばしば。
それでも許される のは、彼女の経験と能力がグループでも一目 置かれているから」と、ミーティングにも同 席する松林部長は言う。
冨塚専任課長の入社は七八年。
きっかけは、 学生時代のアルバイトだった。
スーパーなど の店頭でAGF製品の試飲を勧める販促のバ イトを二年半ほどやった。
そのとき顔見知り になった社員から誘われるまま、卒業後AG Fに入社。
当初四、五年は、東京支店で首都 圏エリアの販促管理をしていた。
その後の異 動でギフト製品の需給調整担当となりロジス ティクス畑へ。
「ロジスティクス」という言葉との出合いは 八六年頃に遡る。
その前年からAGFは、全 国の支店や営業所に分散していたロジスティ クス機能を本社に統合する大規模な改革に着 手していた。
情報システムの統合、需給調整 機能の統合、物流管理機能の統合という三ス テップで進めた改革は、最初の五年間で在庫 六割減、対売上高の物流費が二・一%減と いう効果を上げた。
この改革でリーダーを務めた当時の川島孝 夫部長(現・東京海洋大学大学院教授)か らロジスティクスの薫陶を受けた。
ロジステ ィクスとはもともと兵站学を指す。
ロジステ ィクス部隊は、後方部隊として一緒に戦争に 行くんだという考えを学んだ。
別の上司から 勧められて『ドイツ参謀本部』という本を読 んだりしながら、理解を深めていった。
九一年からは本社に新設されたインフォメ ーション&ロジスティクス部に配属され、担 当エリアが全国に広がった。
九四年には課長 に昇進。
女性ながら転勤も経験している。
二 〇〇〇年に、受注センター立ち上げの責任者 として鈴鹿に赴任した。
東京生まれ東京育ち の冨塚専任課長にとっては、地方の生活も一 人暮らしも初めての経験だった。
「三年間の 転勤生活で視野が大きく広がった。
チャンス があったら、女性も転勤を経験した方がいい」 という。
もっとも出世や肩書きへのこだわりは見ら れない。
「与えられた仕事をシュルシュルとこなしてきただけ。
何かを目指すとか乗り越え てきたというような大げさな感覚もない」と いう。
仕事のモチベーションは趣味のダイビ ングだ。
毎年一週間ほど休みを取ってフィリ ピンの海に潜りに行く。
ただし、周囲への配慮は忘れない。
冨塚専 任課長の下で需給調整を担当する喜多山訓子 生販・受注グループ主査は「休みを取る前に は、関係者に?お達し〞が出る。
休み中の業 務について事前に明確な指示をくれるので、 周りが混乱することはない。
さすがの一言」 と上司を評価している。
27 MAY 2007 味の素ゼネラルフーヅ ――需給調整に女性の特性を活かす 冨塚美佐子生販物流部『味の素基幹システム移行担当』専任課長 55年4月東京生まれ。
78年法政大学文学 部日本文学科卒業。
同年味の素ゼネラル フーヅ入社。
以降、ギフト製品の需給調 整、受注センター立ち上げ、情報システ ムの統合・刷新に従事。
コンピュータメーカー、デルのロジスティ クスを管理するオペレーション本部にデル・ モデルの?番人〞がいる。
町田愛子エグゼク ティブ・アシスタント&トレード・コンプラ イアンス・マネージャーだ。
オペレーション 本部長の右腕として日本市場向けのロジステ ィクスを統括するほか、自らもトレード・コ ンプライアンス部を率いている。
貿易に関する法令遵守部門の日本代表とし て、全ての従業員の活動をいつでもストップ できる権限を持つ。
全取引を一日四回スクリ ーミングして、日本の輸出規制に加え、本社 を置く米国商務省の再輸出規制に抵触する恐 れがないかをチェックする。
自他共に認めるハードワーカーだ。
趣味や 家庭ももちろん大事だが、仕事が好きで仕方 ない。
「学校を卒業する前からずっと仕事は 続けていこうと考えていた。
今も私にとって 仕事は大きな部分を占めている。
留学や出張 などで米国のカルチャーに触れ、プライドと 責任を持って働く女性に数多く接したことが 影響しているかも知れない」 大学卒業後、総合職としてアルプス電気に 入社。
輸出業務を担当し貿易実務の知識を学 んだ。
自ら手を挙げて女性としては同社初と なる海外出張も経験した。
その時には同社の 創業者で当時会長を務めていた片岡勝太郎氏 (故人)から呼び出され、「君が失敗したら今 後女性の出張はなくなると思え」と発破をか けられた。
「やってやろうじゃない」と燃えた。
米国出張の目的はSCMの実態調査だった。
受発注から納品までのオペレーションを見直 し、新しい受発注システムを構築するため、 現場の実状を視察し、担当者から問題点を聞 き出した。
このヒアリングを元にして実際に システムを構築するところまで、プロジェク トの中心メンバーとして活躍した。
管理職に昇進したのも女性初だった。
ロー ルモデルになるような女性幹部は社内には見あたらなかったが「上司に恵まれた。
男性だ ろうが女性だろうが関係ない、仕事はできる やつにやらせればいいという考えでドンドン 仕事を任せてもらえた。
もちろん苦労はあっ たが、打たれて成長するという実感があった」 と振り返る。
その後、日本の工場を米国西海岸に移転す るプロジェクトを担当した。
ところが、せっ かく稼働させたこの工場は、NAFTA(北 米自由貿易協定)の締結によって、わずか数 年で再移転することに。
工場の売却から従業 員の解雇など後始末に追われた。
閉鎖の日、 工場の門の前に立つと、自然と涙がこぼれた。
会社の決定を恨みはしなかった。
むしろ貴 重な経験をさせてもらったと感謝している。
しかし自分のなかで一区切りついた。
以前か ら興味のあった外資系企業に転職することに した。
上司に土下座までされて慰留された。
情にはもろい。
会社への愛着もあった。
四回 目に書いた辞表で、ようやく転身が適った。
デルに入社したのは九八年。
入社して驚い た。
経営スピードが日本企業とは全く違う。
「デル・モデル」と呼ばれる独特のSCMに 毎日修正が加えられ、革新されていく。
行動 しながら考えることが求められた。
それまで日本向け製品はマレーシアで生産 していた。
それを中国のアモイに移転するた めのロジスティクス・ネットワークの設計が 主な仕事だった。
当時のオペレーション本部 長で、その後コンサルタントに転身した新良 清氏は町田マネージャーについて「仕事がで きるのはもちろん、責任感が強い。
あらゆる 面で助けられた」と評価する。
いかに少ない人数で多くの貢献をできるか。
常にそれを考えてきた。
「私が経営者だった らそれを望むから」。
声高に女性の権利を主 張する手合いには批判的だ。
権利を主張する 以上、責任をとれと思うこともしばしば。
覚 悟の足りない女性が日本には多いとも感じて いる。
デル・モデルを支える現在の仕事は基本的 に「組織カルチャーの違いを克服してWin ―Winの仕組みを作っていくという考え方 に立っている。
この取り組み姿勢でもっとワ ールドワイドに活動していきたい。
それが今 の目標」だという。
デル ――全取引を監視するデル・モデルの番人 町田愛子オペレーション本部マネージャー MAY 2007 28 大学卒業後、アルプス電気に入社。
貿易 業務や情報システム構築に携わる。
1998 年に退社。
デル・コンピュータ(現デル) に入社。
オペレーション本部アシスタン ト・マネジャーを経て現職。
ディー・エイチ・エル・ジャパン(DHL ジャパン)に、年間一六億円を売り上げるト ップセールスウーマンがいる。
営業本部法人 営業第一部の小田川佳子インダストリーマネ ージャーだ。
「一線で活躍する女性が珍しくな い当社でも、彼女の存在は際だっている」と マーケティング本部の高橋麻帆コーポレート コミュニケーションズエグゼクティブは言う。
実際、小田川マネージャーの営業成績は〇 五年、〇六年と二年連続で社内トップ。
〇五 年度は、アジア・パシフィック地域の業績優 秀者に与えられる「Outstanding Sales Performer(優秀営業賞)」にも輝いている。
同社の年度は一月始まり。
三月入社で二カ月 少なかった〇四年でさえ、トップクラスの売 り上げだった。
顧客のなかには女性というだけで相手にし てくれない人もいる。
それでも、「アプローチ の仕方を工夫すれば話を聞いてくれるように なる。
押すか、引くか。
相手がどういう価値 観を持っていて、どう攻めていけばいいか。
例えば外資系企業なら『押し』が大事。
日本 企業は女性が強すぎると警戒心を持つので物 腰を柔らかく。
女性だけでは物足りなく思う 相手には、男性社員とそろって訪問する。
手 強い相手ほど、どうやって落とそうかと考え るのがおもしろい」と小田川マネージャーは 言う。
女性としてキャリアを重ねる上で味わった 理不尽な経験が、顧客一人ひとりの攻略法を 考える訓練になった。
スタートは短大卒業後 に一般職として入社した重電系の大手老舗メ ーカーだった。
男女雇用機会均等法施行後の第一期生に 当たる。
だが、入社早々、絵に描いたような 男女差別を目の当たりにすることに。
「女の 子は三年で辞めてもらっていい。
三年居れば 最初の研修の元が取れるから」――いきなり 浴びせられた言葉に、辞めてやろうかと憤る 一方、相手の術中にはまるものかという反骨 心も生まれた。
配属されたのは海外事業部。
分厚い契約書 をタイピングしたり、電卓をたたいてコスト 計算をしたりと、営業アシスタントとしての 仕事を淡々とこなした。
与えられた仕事はす ぐに終わってしまう。
暇なのは堪えられない 性分だ。
一般職ながら上司に掛け合って、小 口顧客を対象にした営業を少しずつ担当する ようになった。
入社から十一年後の九七年四月、上司から の推薦を受けて女性第一号の営業総合職に転 換した。
男性社員を対象としてきた営業研修 に女性として初めて参加した。
研修担当の男 性社員が、参加者を順番に指名して、これか ら営業としてやりたいことを一言ずつ発表さ せた。
次は自分の番だと口を開こうとすると、 飛ばして次の人が指名された。
あからさまな 嫌がらせ。
腹が立った。
しかし、そこで取り 乱しては「だから女は」と言われるだけ。
じ っと堪えた。
それでも晴れて営業部主任として二人のア シスタントを抱えるようになった。
六社を担 当し月平均の売上高は約五億円。
トップセー ルスとして九八年には社長賞を受賞した。
し かし、そこまでが限界だった。
海外勤務を希 望したが、女性という理由だけで受け入れて もらえない。
昇進も期待できない。
転職を決 意した。
外資系の貿易会社を経て、現在のDHLジ ャパンへ。
物流業界は男社会と言われるが、 「意外と女性が多い。
新卒で勤めたメーカー と比較すれば、今のほうがずっと女性にとっ て働きやすい。
とりわけDHLは評価指標が明確で、能力のある人なら性別に関係なく伸 びられる会社だ」と小田川マネージャー。
入社時の肩書きは、カントリーグローバル アカウントマネジャー。
一般的な企業の課長 職に当たる。
今年一月にインダストリーマネ ージャーに昇進した。
十二人の営業部隊を抱 える部長職だ。
従来の直属の上司のポストが 空いた際の社内公募に手を挙げた。
「上に行 くほど、入ってくる情報や見える景色が変わ ってくる。
三〇代四〇代は脂が乗っている時 期。
新たに手にしたチャンスを全うしたい」 と意欲を燃やしている。
DHLジャパン ――年16億円稼ぐトップセールスマン 小田川佳子営業本部法人営業第一部インダストリーマネージャー 29 MAY 2007 86年3月東京女子大学短期大学部教養科 卒業。
同年、大手電線メーカー入社。
01 年ユミコアマーケティングサービス ジャパン入社。
04年DHLジャパン入社。
07年1月より現職。
トヨタ、GE、UPSという世界企業でロ ジスティクスのキャリアを積んだ女性エリー トが今年一月、イージーエル(EGL)ジャ パンのロジスティックス部部長に就任した。
「これで日本でもロジスティクス事業が拡大 していくと、社内の期待が集まっている」と 社員の一人は目を輝かせる。
米国系航空フォワーダーとして知られるE GLは近年3PL事業の強化を進めている。
既に本拠地の米国では3PL事業でも大手の 一角を占める地位を確立しているが、日本市 場ではまだ影が薄い。
その切り札とすべく新 たに招いたキーマンが、ロジスティックス部 の小林淳子部長だ。
前職はUPSサプライチェーンソリューシ ョンのロジスティクス部門日本代表。
日本市 場におけるUPSの3PL事業をゼロから立 ち上げ、年商三〇億円規模にまで育て上げた 実績を持つ。
「UPSで六、七年かけてやっ たことを、半分の期間でやっていければと思 っている」と小林部長は新天地での意気込み を語る。
小林部長にとってEGLは四社目の勤務先 となる。
南山大学卒業後、地元のトヨタ自動 車販売に入社した。
配属は輸出車両管理部。
支払いや船のブッキングなど、車両輸出に関 わる事務全般に携わった。
短くなった鉛筆は サックに差してギリギリまで使うなど、コス ト削減意識を擦り込まれた。
一円二円のコス トをシビアに考える習慣は、その後も役に立 っているという。
しかし三年経つとキャリアの先が見えてし まった。
組織は男性中心で女性は補助。
女性 に用意された職階は一つだけ。
経験を積んで 一度昇進したらそこまで。
それ以上のチャン スはなかった。
トヨタを退社し、渡米して勉強し直すこと に決めた。
親からは何を考えているんだと責 められ、資金的な援助は一切しないと宣告された。
全米で最も学費の安かったミシシッピ 州を選び、トヨタ時代に貯めたお金を握りし めて留学した。
留学先の南ミシシッピ大学で は、国際経済学やマーケティングを学んだ。
将来は貿易関連で起業しようと考えていた。
一年半後、留学資金が底を尽いた。
資金稼 ぎのために一時帰国。
しかし当時、キャリア 志向の女性が活躍できる会社は名古屋にはな かった。
東京のいとこを頼って上京。
新聞に 募集広告を出していたGEの家電部門、日本 ゼネラル・アプラィアンスに入社した。
入社 して間もなく、ジャック・ウェルチ氏がGE のCEOに就任。
ドラスティックな経営改革 が刺激的で、どんどん仕事にのめり込んだ。
結局、アメリカの大学には戻らなかった。
GEでは、アジア地域におけるサービスパ ーツの物流を統括した。
部品の在庫削減とリ ードタイム短縮を実現する仕組み作りを任さ れ、シンガポール、タイ、韓国といった国々 の現地スタッフを部下に抱えてアジア地域の 部品物流を統括した。
ロジスティクスの手法を体系的に学んだこ とは無かったが、経営のプロセス改革として 導入していたシックスシグマの手法が役に立 った。
オペレーションを評価する指標の作り 方、問題点の探り方、データの取り方といっ た手法を活用しながら、実践でロジスティク スを身につけた。
十二、三年かけてパーツロジスティクスを 安定させた頃、GEでの経験をサービスとし て提供する側に回ったら面白いだろうなと思 うようになっていた。
ちょうどそのころ、U PSが日本でロジスティクス部門の会社を立 ち上げようとしていた。
九八年二月、UPS ワールドワイドロジスティクスの日本支社長 となった。
入社時点では会社がまだ正式に存在してい なかった。
登記から、まさに一からすべて立 ち上げた。
営業活動も当初は思うようにはい かなかった。
試行錯誤が続いた。
それでも3 PLビジネスには執着した。
「物流業界は男 社会と言われる。
しかし3PLは人が勝負。
性別に関係なく、分析力や提案力の優れた人 材をいかに確保して活用できるかがその会社 の競争力を決める」と、自らの活動の舞台を 評価している。
EGLジャパン ――荷主の視点で3PL市場を拓く 小林淳子ロジスティックス部部長 MAY 2007 30 53年9月生まれ。
76年南山大学文学部英 文学科卒業。
同年、トヨタ自動車販売入 社。
80年GEアプラィアンス入社。
98年 UPSワールドワイドロジスティクス日本 支社長。
07年1月より現職。
物流分野におけるICタグ活用で、日本パ レットレンタル(JPR)は先進企業の一つ に数えられる。
ブームに先立つ二〇〇〇年か ら実用化の検討に着手。
〇六年八月にはパレ ットにICタグを貼付してデータキャリアと しての機能を持たせ、グローバルな個体管理 を可能にする新サービスを開始した。
加納尚美副社長が、同社のRFID事業 を牽引してきた。
七九年の電算化プロジェク ト立ち上げから現在のRFID技術を活用し たパレット管理に至るまで、同社の情報シス テムプロジェクトの全てを手がけたCIO (最高情報責任者)だ。
今や社歴は実質的な 創業者である坂井健二会長の次に古い。
高校卒業後、地元茨城県で金融機関に勤 めていたが、結婚を機に退職。
上京後、日本 パレットレンタルに再就職した。
管理部に配 属され、パレットの枚数管理と客先への請求、 デポへの支払い業務を担当した。
入社二年後 の七九年、パレット管理を電算化することが 決まるとプロジェクトの責任者に任命された。
前職の金融機関でシステム導入を経験してい たというだけの理由だった。
ルーティンのパレット管理事務と並行して プロジェクトに取り組んだ。
業務を洗い出し、 フローチャートに落とし込む。
NECから出 向してきたSEと打ち合わせを重ねてシステ ムを構築した。
ようやく完成したと安心したのも束の間、試しに在庫枚数や各ユーザーに 対するレンタル料を算出してみると間違った 数字が出てしまう。
手直しのために深夜残業 が続いた。
夫からは会社を辞めろと言われた。
辞めるどころか、どんどん仕事に嵌ってい った。
純粋に面白かった。
プログラムの組み 方もほぼ独学で習得した。
開発時に予算の関 係で載せなかった仕組みも、「自分で作って しまえばタダ」。
事務の効率化に役立つと考 えたシステムを、次々にアドオンしていった。
会社は安定的に成長していった。
とりわけ 九〇年に「T 11 型レンタルパレット共同利用 推進会(P研)」に採用されたことで、パレ ットの保有枚数が急増した。
八八年の一〇〇 万枚が、九四年には三倍の三〇〇万枚に。
当時、社外とのやり取りは、まだ電算化さ れていなかった。
ユーザーはデータを手作業 で管理してファクスでJPRに送信し、JP Rではファクスを基にデータを入力しなけれ ばならなかった。
これを自動化するオンライ ンシステムを開発、九八年に発売した。
煩雑 だった管理業務が軽減され、管理精度も上が った。
ユーザーの囲い込みにもつながった。
このシステムを〇二年にはウェブ対応シス テム「epal」としてバージョンアップし た。
これにICタグの機能をプラスしたもの が、前述のパレット管理システムだ。
高卒事務員として入社し、しかも再就職。
出世など考えていなかった。
それでも仕事は 好きだった。
三一歳と三六歳のときに出産し たが、退職して家庭に入る考えは全くなかっ た。
とはいえ、子育てとの両立は楽ではなか った。
保育園のお迎えがあるので残業ができ ない。
子供が熱を出せば会社を休まなければ ならない。
冷たい目で見る人もいた。
「みんなで応援しなくちゃダメだ。
」そう言 ってくれたのは坂井健二社長(現会長)だっ た。
「どんなに気を張って頑張っていても、『ま ったく子持ちのオンナは』などと言われたら さすがにめげる。
あの一言で、辛い時期も乗 り越えられた」と加納副社長は振り返る。
九六年に管理部内に電算室が発足したのを 機に、電算室長という役付になった。
課長職 だ。
二年後の九八年には、次長、部長という ポストを飛ばしていきなり取締役に指名された。
今では語り草になっているが、実は、取 締役に指名した坂井社長(当時)が「室長」 を部長クラスと勘違いしていたのだという。
便宜的に一カ月ほどの「部長」を経て、取締 役になった。
その後、〇一年の取締役情報管理部長、〇 五年の常務取締役情報本部長となり、〇六年 に取締役副社長に就任した。
「他の仕事をや ってみもしないで『自分はアシスタント向き』 などと決めつけてしまう女性が多いのは残念 なこと。
一歩踏み出してみれば違う世界が待 っていることを知って欲しい」と語る。
日本パレットレンタル ――高卒事務員から副社長に昇進 加納尚美副社長 31 MAY 2007 51年12月茨城県生まれ。
高校卒業後、金 融機関を経て77年日本パレットレンタル 入社。
98年取締役電算室長、01年取締 役情報管理部長、05年常務取締役情報本 部長、06年取締役副社長。

購読案内広告案内