ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2005年8号
特別企画
小倉昌男と戦後日本の物流業

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

AUGUST 2005 22 トラック運送大国ニッポン 戦後日本の物流業はトラック運送が その中心的役割を担ってきた。
国内物 流の輸送モード別の分担率を輸送トン ベースで見ると、トラック運送のそれ は現在、約九〇%に上っている。
物 流業の売上金額ベースでも約一七兆円 と言われる国内市場の三分の二をトラック運送業者が占めている。
諸外国と比較して日本はトラック運 送の比重が格段に大きい。
国土条件 等の物理的な理由はあるものの、トラ ック運送業者が自ら経営努力を重ね、 荷主企業にとって使い勝手の良い輸送 サービスを提供してきたことが、今日 の?トラック運送大国〞を築き上げる 原動力となったことには疑いがない。
そこでは西濃運輸を創業した田口利 八氏とヤマト運輸の小倉昌男氏という 二人の経営者が大きな役割を果たし た。
戦後日本のトラック運送業は、鉄 道から荷物を奪う形のモーダルシフト によって規模を拡大した(図1)。
ト ラック一台に満たない中ロット以下の 貨物を混載してドア・ツー・ドアで配 送する特別積み合わせ輸送、かつての 「路線便」が、その推進役を担った。
戦後間もない昭和二六年のクリスマ スの朝。
西濃運輸は東京〜名古屋間 の定期幹線輸送の第一号車を走らせ た。
これによって先に運行していた名 古屋〜大阪間と合わせ、トラックで東 海道を結ぶ幹線輸送ルートが完成し た。
それまでトラックの利用は近距離 の域内輸送に限られており、一般的な 商業貨物でも長距離輸送は主に鉄道を 利用していた。
しかし、国鉄は幹線輸送を担うだけ で、駅からの集配は荷主が自分で運ぶ か、通運(小運送)と呼ばれる専門 業者に委託するしかない。
それだけ時 間と手間がかかった。
しかも当時の鉄 道輸送は完全な需要過剰で、運び切 れない荷物が駅で滞留し、いつ届くの か誰にも分からないという状況だった。
これに対して西濃は、東海道の主要 地域に集配ターミナルを設置して、拠 点間を大型トラックで定期運行するこ とで、鉄道路線を代替する幹線輸送 ルートを構築。
末端の集配まで一括して請け負う新たな輸送サービスとして 路線便を開発した。
昭和二九年には、 それまで三日かかっていた東京〜大阪 間の輸送を二二時間に短縮する「弾 丸便」をスタート。
リードタイム面で も付加価値を高めていった。
荷主に車両とドライバーを派遣する 貸切り輸送とは異なり、輸送ネットワ ークと情報インフラを必要とする路線 便は、トラック運送業の近代化を牽引 する役割も果たした。
車両とドライバ 6月30日、ヤマト運輸の小倉昌男元会長が逝去 した。
「宅急便」を生み出し、官と戦い続けた稀代 の経営者は、日本の物流市場史に何を残したのか。
そして転換期を迎えた市場は、今後どこに向かっ て進んでいくのか。
小倉氏と「宅急便」の足跡を 振り返り、氏亡き後の物流市場の行方を占う。
(大矢昌浩) 小倉昌男と 戦後日本の物流業 23 AUGUST 2005 ーのリース業から、パッケージ化した 商品を販売する装置産業にトラック運 送業を革新させたのだ。
この後、一九五五年頃からオイルシ ョックの七四年までの高度経済成長時 代に、西濃を始め福山通運、日本運 送(後のフットワークエクスプレス)、 そして日本通運などの路線会社は順調 に売り上げを伸ばしてった。
これに歩 調を合わせてトラック運送業全体の市 場規模と輸送分担率も急拡大した。
この時期、ヤマト運輸(当時の大 和運輸)は他の有力路線業者に出遅 れた形になっていた。
元々、ヤマトは 一九二九年に日本で初めて東京〜横浜 間のトラックによる定期便を走らせた 名門で、戦前には車両百数十台を有 する日本一のトラック運送会社だっ た。
三越や大丸などの百貨店をメーン の荷主として首都圏の配送業務では圧 倒的なシェアを誇っていた。
しかし同社の創業者で小倉昌男氏の 実父に当たる当時の小倉康臣社長は、 トラックによる長距離輸送には懐疑的 だった。
実際、同社が東京〜大阪間 の路線便を開始するのは、西濃などに 遅れること一〇年余り、一九六〇年 になってからのことだ。
その後、七一 年には昌男氏が二代目社長に就任する が、「宅急便」を発売する七六年まで、 同社は銀座に本社を構える老舗の運送 会社という目立たない存在に過ぎなか った。
路線便 VS 宅配便 路線便がそれまで鉄道で運ばれてい た商業貨物をターゲットにしたのに対 し、「宅急便」は当初、郵便局の一般 小包の代替サービスとして出発した。
そして全国翌日配達や均一料金、一 般宅の玄関先までの集荷など、それま でなかったサービスを付加して利便性 を高めたことで、一般小包の一〇倍以 上に上る新たな需要を創造した。
「宅急便」発売前後の事情とその後 の経緯については、既に多くの関連資 料が世に出ている。
ここでは路線便と宅配便のビジネスモデルの違いを確認 しておきたい。
「宅急便」を始めとす る民間運送業者の宅配便は行政の管理 区分上、特別積み合わせ輸送(路線 便)の一つとして位置付けられてい る。
しかし、路線便と宅配便のビジネ スモデルは正反対の特徴を持っている。
路線便は長距離の幹線輸送を収益 源としている。
高度経済成長時代の 売り手市場では、輸送サービスの供給 力が路線業者の業績を決めた。
路線 業者は正社員の長距離ドライバーを厚 遇して供給力の確保に努めた。
末端 の集配業務は各地元の下請け運送会社 に任せるのが常だった。
これに対して宅配便は、末端の集配 サービスに付加価値の源泉を求めた。
大手メーカーを主要荷主とする路線便 と異なり、宅配便の荷主が一般消費 者だったからだ。
そのためヤマトは 「セールスドライバー」と名付けた正 社員を前線に配備して集荷力を確保。
幹線輸送のほうを傭車に回す独自のモ デルを展開した。
ヤマトに続き、日通や西濃も相次い で宅配便市場に参入したが、そのモデ ルまでは真似できなかった。
宅急便の 開始を機にヤマトは、貨物サイズの大 きい路線便事業を切り捨てている。
し かし他社は路線便事業での成功が、宅 配モデルの導入では逆に足かせになっ た。
ヤマト以外の路線便会社にとって、 宅配便は路線便のバリエーションの一 つでしかなかった。
従来の路線便のメ ニューに、二五キログラム以下の最も 軽い区分を設けた格好だ。
長距離ト ラックドライバー中心の労務管理は依 然として続き、消費者や小口荷主か らの集荷力強化は後手に回った。
宅配便に特化したヤマトの全国ネッ トワークが整うに連れ、サービス品質 面、事業規模とも他社との格差が拡 大していった。
それでも九〇年に「物 流二法(貨物自動車運送事業者法と 貨物運送取扱事業者法)」が施行され て運送業の競争規制が緩和され、バ ブル崩壊を迎えるまでは、トラック運 送業は総じて不況に強く、儲かるビジ ネスだと一般に目されていた。
実際、九〇年までトラック運送業 は倒産の少ない業種の一つだった。
免 許制によって新規参入を制限すること 6,000 5,000 4,000 3,000 2,000 1,000 0 '55 '60 '65 '70 '75 '80 '85 '90 '95 '00 '60 '65 '70 '75 '80 '85 '90 '95 '00 (輸送トンキロ) 図1 輸送分担の推移 図2 貨物輸送路量とモード別分担の推移 100 90 80 70 60 50 40 30 20 10 0 (トンキロベース) (%) 自動車 鉄 道 内航海運 国内航空 (億トンキロ) AUGUST 2005 24 で既得権が保護されていた。
小倉昌男 氏が「宅急便」の営業エリアを全国 に拡大していく過程で、営業免許の取 得や新サービスの認可を巡って当時の 運輸省と激しくやり合ったことは広く 知られている。
西濃の田口利八氏も、かつて路線 業を開始した時代には幹線輸送の免許 取得で、運輸省に何度も足を運んで いる。
国鉄を傘下に抱えていた当時の 運輸省は、長距離輸送は鉄道という 原則を崩そうとせず、トラックによる 長距離定期幹線輸送というアイデア に、なかなか首を縦に振ろうとしなか ったと言われる。
運輸省による保護行政は、トラック 運送業者の経営安定には役立ったもの の、輸送サービスやビジネスモデルを 革新しようとするものにはブレーキと して働いた。
生前、小倉昌男氏は「運 輸省の役人は小学校五年生以下。
い ないほうが世のためになる」と痛烈に に行政を批判する徹底した規制緩和論 者だった。
そして「物流二法」による 運送業の規制緩和についても、「誰も 法律を守っていない現状を追認しただ け。
効果は期待できない」と切り捨て ていた。
しかし、その後の経緯を見る限り、 規制緩和は想定された通りの影響を日 本の物流市場にもたらしている。
新規 参入業者の急増によって、輸送サービ スの需給は一気に緩んだ。
その結果、 実勢運賃は下落の一途をたどり、運 送業者の倒産が相次いだ。
売り手市場から買い手市場に変わっ たことで、供給力ではなく集荷力が問 われるようになり、路線業者のモデル は破綻をきたした。
とりわけ宅配便の ような重いインフラを必要とするビジ ネスの収益性は稼働率がモノを言う。
淘汰による上位寡占という装置産業の 理論通りの優勝劣敗が顕著になり、宅 配便の勝ち組はヤマトと、そして佐川 急便の二社に絞られた。
規制緩和が淘汰を促進 ちなみに佐川は九八年に宅配便を行 政に届け出るまで、自らを宅配便業者 とは位置付けていなかった。
ヤマトを 含めた他の大手路線業者と違って、佐 川は江戸時代の飛脚に由来する「急 便」を事業の原点としている。
もとも と急便は荷物を運ぶだけでなく、集金 業務や他の雑務まで請け負う便利屋的 な存在で、トラック運送業とは色合い が異なる。
そのため行政の管理区分上 はトラック運送業に属しながらも、佐 川自身にその意識は薄かった。
トラック運送業界側も佐川を同業者 として、あまり意識してはいなかっ た。
実際、九〇年頃までの佐川の実 勢運賃は、一般の宅配便を遙かに上 回っていた。
宅配便とは異なる市場を 作っていたのだ。
ただし、そのビジネスモデルはヤマ トと酷似していた。
佐川は「宅急便」 以降のヤマトと同様に、事業開始時 点から正社員のセールスドライバーに よる集荷力を競争の核とした。
幹線輸 送には傭車を使い、中ロット以上の貨物を基本的に扱わない専業体制でも共 通している。
消費者物流と企業間の B to B物流というドメインの違いこ そあれ、集配網中心のネットワーク・ コンセプトはヤマトと全く同じだった。
宅配便市場の淘汰を勝ち残ったこの 二社は、バブル崩壊後の需要低迷と 収益性の悪化に苦しむ他の路線会社を よそに、今日にいたるまで順調に事業 規模を拡大させている。
経済が成熟 し、市場規模の拡大が期待できなくな ったことで、集荷力の差が業績の違い として、ますます明確に現れるように なっている。
宅配便の登場でトラック運送業は、 サービス業に進化した。
これによって トラック運送業の競争力の源泉は幹線 輸送から集配網にシフトした。
小倉昌 男氏の「宅急便」そして佐川清氏の 佐川急便は、路線便のメニューを増や すことで新たな需要を生み出しただけ でなく、運送会社のビジネスモデル自 体を革新したと言える。
このように戦後日本のトラック運送 業は、路線便を生み出した田口利八 氏によって近代的な装置産業としての 産声を上げ、高度経済成長と共にそ の規模を拡大した。
この時代には鉄道 輸送を代替する、トラックによる幹線 輸送の供給力が最大の競争条件だっ た。
「幹線輸送の時代」だった。
その後、小倉昌男氏の「宅急便」に よって、ビジネスモデルの革新が起こ った。
幹線輸送に代わり、末端の集 荷力が問われるサービス業に、トラッ ク運送会社の社会的な位置付けが変わ った。
一方、トラック運送業者とは全 く違う切り口から、佐川もヤマトと同 じモデルを展開していた。
高度経済成 長を終えた市場で、この二社は新たな 勝ち組となった。
これを「集配網の時代」と呼ぶとすれば、時期的には「宅急便」発売の 七六年から九〇年代後半までが当ては まる。
九七年にヤマトは小笠原諸島へ の拠点進出によって全国ネットワーク を完成。
そして翌九八年には佐川急 便が正式に宅配便市場に参入。
「二強」 への集中が進み、市場の淘汰は一つの 峠を越えた。
現在、市場はまた大きな転換期を迎 えている。
日本郵政公社の民営化、物 流市場の国際競争の本格化、そして3 25 AUGUST 2005 PLビジネスの普及という三つの要因 が、変革のドライバーとなっている。
郵便事業だけでも二兆円という規模 を誇る郵政は、民営化後に物流市場 に参入する方針を掲げている。
日通を 上回るガリバー企業が日本の物流市場 に突如として登場することになる。
「二 強」からあぶれた西濃や日通がそこに 加わることで、宅配市場に三本目の柱が生まれる。
脱・トラック運送業 ドイツポストやUPS、フェデック スといった国際インテグレーターによ る日本市場参入も本格化している。
こ れまで欧米のインテグレーターは、ヤ マトや佐川、日通を提携先として自国 と日本を結ぶ国際宅配便を手掛けてい るだけだった。
それが二〇〇〇年前後 から方針を転換。
国内大手との提携 関係を事実上解消し、自ら日本に資 本を投下し始めている。
さらには英エクセル社を始めとする 国際3PL企業による日本企業の買収 も始まった。
二〇〇七年には外資系 企業の株式交換による日本企業買収が 解禁される。
物流子会社や物流企業 のM&Aが活発化するのは必至だ。
業 界再編が加速し、市場は国内大手と 国際大手が同じ土俵でぶつかりあう新 しいフェーズに突入する。
それはもはやトラック運送業の競争 ではない。
六月、佐川はギャラクシ ー・エアライアンズを設立。
貨物飛行 機を自ら所有するインテグレーターと しての一歩を踏み出した。
足元の国内 宅配でも、都市圏の台車による配送 やメール便の投函など、トラックを使 わない配送手段の比重が増している。
さらに3PL事業では、ハードよりも コンサルティング能力を持った人材の 確保・育成がカギになっている。
国際的な大手同士の競争には、ブ ランディングを始めとした高度なマー ケティング機能と、多様な人材を管 理する労務管理能力が必要だ。
国内 市場におけるトラック運送会社の淘汰 を勝ち残ったモデルが、今後も通用す るとは限らない。
むしろ宅配便にター ゲットを絞った完成度の高い組織は、 個別の荷主に合わせた柔軟な対応を求 められる3PLビジネスとは馴染みに くい。
西濃運輸の田口利八氏、佐川急便 の佐川清氏、そして今回の小倉昌男 氏の逝去によって、戦後日本のトラッ ク運送業を牽引したカリスマ経営者は 全て歴史の舞台から去ったことになる。
トラック運送の時代を経て、再び変革 期を迎えた市場は、物流業の新たなモ デルを提示する次世代のスターの登場 を求めている。
1872年 陸運元会社設立 1875年 内国通運会社に改称 1919年 大和運輸設立 1923年 三越と配送契約 1928年 国際通運株式会社 1929年 東京〜横浜間定期便 1930年 田口自動車設立 1931年 西濃トラック運輸設立 1932年 国家統制で合同 1937年 日本通運株式会社法 1946年 終戦、水都産業を設立 1948年 西濃トラック運輸に改称 1949年 大垣〜名古屋、大阪間の路線免許取得 1950年 民営化 東京〜名古屋間の路線免許取得 1951年 東京〜名古屋間定期便開始 1954年 東京〜大阪を22時間で結ぶ「弾丸便」 1955年 西濃運輸に改称 1957年 京都〜大阪間で急便 1962年 米国日通設立 (有)佐川設立 1966年 佐川急便株式会社設立 1971年 小倉昌男氏社長就任 1976年 「アロー便」発売 「宅急便」発売 1977年 「ペリカン便」発売 「カンガルー便」発売 1982年 田口利八氏死去 ヤマト運輸に改称 1983年 「総合物流商社」構想 「スキー宅急便」発売 1984年 「ゴルフ宅急便」発売 1986年 「コレクトサービス」発売 1987年 「UPS宅急便」発売 1988年 「クール宅急便」全国展開 1989年 「クールペリカン便」全国展開 1992年 東京佐川急便事件 1994年 幹線共同運行開始 幹線共同運行開始 1997年 「メール便」開始、全国網完成 1998年 チルド便で郵政と提携 宅配便市場に参入 1999年 独シェンカーと提携 クール便を全国展開 2000年 3PL事業に本格参入 「eコレクト」全国展開 2002年 松下電工と3PL子会社 郵政と信書便論争 佐川清氏死去 2003年 5000拠点体制へ 中国で宅配事業開始 2004年 宅配便で郵政と提携 宅配便で日通と提携 UPSとの資本提携解消 メール便で郵政と提携 2005年 中国事業で三菱商事と提携 ドイツポストと提携 貨物航空会社設立  黎 明 期 幹 線 輸 送 の 時 代 集 配 網 の 時 代 〜 現 在 日本通運 西濃運輸 ヤマト運輸 佐川急便 日本のトラック輸送業の沿革

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