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佐高 信
経済評論家
85 FEBRUARY 2008
『月刊 日本』という雑誌がある。 どちらか
と言えば保守系の雑誌だが、その一月号に曽
野綾子批判が掲載された。 山崎行太郎の「月刊・
文芸時評」がそれで、曽野の大江健三郎批判
が「誤字・誤読」から始まっているというも
のである。
山崎は「私が擁護したいのは、大江健三郎
の政治思想や政治的立場ではなく、大江健三
郎の文学であり、大江健三郎のテキストである」
として、大江の『沖縄ノート』(岩波新書)に
関わる曽野の「誤字・誤読」に触れる。
山崎によれば、「作家としては致命的な、決
定的な」それは、曽野の『ある神話の背景』(文
藝春秋、のちに『「集団自決」の真実』と改
題されてワック)で次のように記述されている。
〈大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次の
ように書いている。
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自
己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくり
かえしてきたということだろう。 人間として
それをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の
巨魂のまえで‥‥」
このような断定は私にはできぬ強いもので
ある。 「巨きい罪の巨魂」という最大級の告発
の形を使うことは、私には、二つの理由から
不可能である〉
これは大江を法廷の被告席に立たせた問題
の箇所だが、何と、曽野は肝心のここで「誤字・
誤読」をしているという。
大江は『沖縄ノート』に「あまりにも巨き
い罪の巨塊のまえで」と書いたのに、曽野は
それを「罪の巨魂のまえで」と引用してしま
ったのである。
つまり、曽野は「巨塊」(物)と「巨魁」(人
間)を勘違いして解釈し、次のように大仰に
騒ぎたてた。
〈決定的だったのは、大江健三郎氏がこの
年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊
長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現な
さったんです。 私は小さい時、不幸な家庭に
育ったものですから、人を憎んだりする気持
ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁」
だと思ったことはない。 だから罪の巨魁とい
う人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけな
いと思ったのです〉(『SAPIO』二〇〇七
年十一月二八日号)
そして、それを受け継いで渡部昇一などが
すぐに尻馬に乗る。 渡部は曽野の「誤字・誤読」
をそのまま次のように引用したのである。
〈曽野綾子さんはこれらの書籍を読んだう
えで、次のようなことを述べています。
「このような著書を見ると、一斉に集団自
決を命じた赤松大尉を人非人、人面獣心など
と書き、大江健三郎さんは『あまりに巨きい
罪の巨魁』と表現しております」(『Will』
十二月号)。
これに対する大江の大阪地裁での次の証言
を山崎は「文字的表現というレベルでは、政
治的立場は別としても、明らかに大江健三郎
の言い分が正しい」とする。
大江は、罪とは「集団自決」を命じた日本
軍の命令を指し、「巨塊」とはその結果生じ
た多くの人の遺体を別の言葉で表したいと考
えて創作した言葉であり、人を指した言葉で
はないと反論した上で、曽野には「誤読」が
あり、それがこの訴訟の根拠にもつながって
いる、と指摘した。
こうした曽野(や渡部昇一)の行動を、山
崎は「保守思想や保守論壇の面汚し」と批
判する。 「そこには、明らかに不純な動機が
見え隠れする。 大江健三郎や岩波書店を裁判
の法廷に引きずり出し、彼等の思想的、政治
的威信に傷を付けたいという保守思想家、保
守論壇の不純な動機である。 私も大江や岩波
書店の政治思想や政治的立場には批判的だが、
論争ではなく、裁判という形での批判や論難、
論破の仕方には違和感を禁じえない」
私には、そもそもこんな曽野や渡部の読者
がまだいるということが不思議である。
作家としては致命的な曽野綾子の「誤字・誤読」
大江健三郎批判に同じ保守陣営からも非難の声
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