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FEBRUARY 2010 20
ジーエフ
──アパレル検品でアジア展開
アパレル製品の検品・物流加工に的を絞っている。 1990年
に繊維産地の岐阜で創業。 輸入品増加の波に乗って事業規模
を拡大した。 検品作業の海外シフトに合わせて2002年には中
国に進出、現地に27拠点を展開している。 昨年は東南アジア
にも4拠点を新設し、ネットワークを一気に広げた。 2013年
の上場を目指している。 (聞き手・梶原幸絵)
眠れない、休めない
──設立からわずか二〇年。 急成長しています。
「タイミングが良かったんでしょう。 以前はアパレ
ルも日本製が多く、検品や検針など必要なかった。
ところが中国からの輸入品が増加したことで、検品
の必要が出てきた。 しかし、ほとんどのアパレル会
社は自社物流で、細かい加工などは個人でやってい
るようなプレス屋についでに頼んで、という状況で
した。 当社のように営業倉庫の許可をとって、検品
でも物流加工でも在庫管理でも何でもやりますとい
う会社はありませんでした」
──そもそも、なぜアパレル品の検品に特化した物
流会社を興そうと考えたのですか。
「大手運送会社でアパレル向け物流センターの設立
に携わっていた父のアイデアです。 私も当時勤めて
ていたアパレルメーカーを辞め、家業を手伝うこと
になりました。 創業時の社員は父と私を入れても四
人です。 当初は他人を入れる勇気がありませんでし
た。 給料が払えるという自信がつくまでは、怖くて
採用などできなかった」
「日中の庫内作業はパートさんにお願いしていま
したが、夜間や休日は残業代のかからない親父と私、
親子でやっていました。 母も手伝っていましたね。
毎日忙しくて眠れない、休めない、お金を遣うヒマ
もない。 当時はずっと辞めたいと思っていた。 実際、
親父には毎晩、辞める辞めると言ってました。 それ
を母が、お父さんのわがままにつきあってくれてご
めんね、と。 それがなければ辞めてました」
──社員の採用を始めたのはいつ頃ですか。
「二年目くらいから徐々にです。 設立から三年目
には、一二〇〇坪の自社倉庫を建てました。 当時は
営業らしい営業はしていなかったのですが、そのく
らい地元のアパレルさんから仕事をいただけてました。
ニーズに対応するだけで手一杯でした」
──ちょうどバブル崩壊の頃ですが。
「岐阜のアパレル会社も廃業したり、倒産したり
していきました。 メーンのお客さんが一年間で三社
つぶれた年もありました。 そのピークが一九九六年
頃で、このままではこっちも一緒につぶれてしまう。
それもあって名古屋や大阪に営業に行き、客層を商
社中心に切り替えようとした。 そうなると、ホント
に営業しなイカン、仕事をもらわなくてはイカンと
一所懸命、初めて本格的に営業をかけました。 その
結果、商社さんからお仕事をいただけるようになり、
倉庫も六棟、七棟と増えていったんです。 売り上げ
は九六年〜九七年頃に二七〜二八億円になりました」
「これでウチも簡単につぶれることはないだろう、
と一安心できました。 ところが、そこで俺は選ばれ
た人間なんだと、天狗になってしまった。 お酒が好
きなものだから、毎晩飲みに行くようになる。 する
と次の日辛い。 仕事もいい加減になってくる。 そん
な生活を続けていてはイカンと、九七年、三〇歳の
時に何のあてもなく東京に一人で出て行ったんです。
関東で営業して、関東に二拠点、新潟に一拠点を作
り、二〇〇一年頃には売り上げを四〇億円に伸ばし
ました」
「悪いことに、そこでまた天狗になってしまった。
しかし東京に出て五年目、かわいがってもらってい
た先輩に、『お前は三五歳で、もうやりたいことが
ないのか。 もうじいさんだな。 二度と会いたくない』
と叱られました。 それで目覚めて親父に電話して、
今度は中国の上海に、また一人で飛び込んだ」
──中国で日本向け商品の検品をしようとした。
児玉和宏 社長
注目企業 トップが語る強さの秘訣
21 FEBRUARY 2010
「その頃、日系の検品会社が向こうで検品した商
品が倉庫にどんどん入ってくるようになっていたん
です。 日本では検品という商売が減っていく。 それ
以前から海外へ出て検品をもらおうとは考えていた
ので、あとはきっかけだけでした」
──中国での検品拠点は沿岸部を中心に二七拠点に
もなっています。
「最初は〇二年の上海です。 〇六年までに一〇数
拠点、その後も毎年、日本向けの生産工場のあると
ころに拠点を作っていきました。 先行投資で拠点を
作って日本のお客さんに営業をかける。 工場さんと
しても、生産した商品は近くに持っていく方が都合
がいいから、使ってもらえる」
グループ売上高は現在一一〇億円
──最近では東南アジアにも拠点を設立しています。
これもアパレルの生産動向に合わせて?
「東南アジアでは、〇五年にホーチミンに進出しま
した。 ところが、思ったように受注が増えない。 縫
製工場はたくさんあったけれどベトナムで作ってい
るのは主にユニフォームで、普通のアパレル品ほど検
品のニーズがなかった。 それでも東南アジアの業績
は四年目くらいにトントンになりましたが、儲かっ
ていたわけではない」
「そこで〇九年の正月に、海外担当役員に現地法
人を清算するかどうか迫りました。 すると彼は撤退
したくありませんと。 むしろ拠点を増やしてネット
ワークを広げようと。 そこで昨年ベトナム北部の港
湾都市ハイフォンと中部のダナン、タイのバンコク、
ミャンマーのヤンゴンまで一気に拠点を作りました。
あとはバングラデシュとラオス、インドにも作りたい
と思っています。 ベトナムもタイもミャンマーも日系
検品会社の進出は当社が初めてです」
──かなりの冒険なのでは。
「多くの拠点があれば、それだけお客さんに出会
える可能性が高い。 ジーエフに頼めばどこでもカバー
できるという、わかりやすいメリットもある。 それ
に中国では僕らより先に進出していた先輩諸氏がお
られました。 国も違えば法律や商習慣も違うところ
で先輩方は苦労した。 同じ苦労を我々が東南アジア
で経験しておくことはムダではない。 そういう環境
に自分たちを追い込んでいかないと、なかなか成長
していくのは難しい」
「ただ現地に送る日本人のモチベーションをどうマ
ネージするかという問題はあります。 外国で暮らす
のはさみしいですよ、やっぱり。 私は一人で中国に
行き、ホーチミンの検品会社を作ったところで日本
に帰りましたが、海外では日本語と日本の米、焼き
魚が恋しくなる。 ほんとにさみしくて、部屋で一人、
曇り窓に『寂』って字をいくつも書いたこともあり
ました(笑)。 何かをやるまでは日本には帰ってこ
ないとタンカを切って出て行ったのに、毎晩毎晩、
帰る言い訳ばかり考えてしまうんです」
──今後の目標を。
「海外やフォワーディングなどを含めると、グルー
プの売上高は現在、約一一〇億円です。 このうち国
内の検品・物流加工以外の事業は四〇億円ほどです
が、そこで一〇〇億円くらいはやりたい。 海外の検
品でも、欧米向けなど日本向け以外の商材を積極的
に取りにいく。 扱いも服だけではなくて、靴やバッグ、
キャラクターグッズ、家具などに広げていく。 国内
でも今年、大阪に新センターを設置するなど売り上
げを伸ばしていく計画です。 そして二〇一三年には
上場したいと考えています」
2013年の株式公開を目指す
1990年、岐阜県で創業。 社名は“岐阜ファッション” の略。 岐阜の繊
維産業がバブル崩壊の煽りで衰退していったのを受けて、名古屋、大阪
の商社にターゲットを拡大。 東京にも進出した。 2002年には中国に進出。
現在、中国に27拠点、東南アジアにも5拠点を置く。 このほか上海と東
京にアパレルなどの生産・販売会社を設立している。
07年には近鉄エクスプレス、ワールド・ロジとの合弁で東京にフォワーディ
ング会社を設立。 08年は香港にフォワーディング会社と貿易会社を設立し
た。 同年上海にも貿易会社を新設した。 これらの事業を検品・物流加工
に次ぐ柱として育てるため、関連会社の統合に向けて検討を進めている。
昨年7月には「B to Cソリューション事業部」を新設し、通販支援事業
を本格的に開始した。 現在、国内では検品センターを12拠点、通販用セ
ンターを4拠点置いている。 今夏には大阪府箕面市に通販用センターを新
設する予定。 2013年の株式公開を目指している。
単体業績をみると、売上高当期利益率は5 %前後で推移している。 し
かし09年6月期から単価の下げ圧力が強まり、昨年末には荷主の廃業も
みられるなど、事業環境が悪化。 10年6月期は国内では主に通販物流の
成長、海外では日本向け商品以外の取扱増や取扱品目の拡大で増収を見
込むが、「単価の下げで増益はきつい」という。
本誌解説
過去3年間の単独業績推移
8,000
7,000
6,000
5,000
4,000
3,000
2,000
1,000
0
400
350
300
250
200
150
100
50
0
《売上高》 (単位:百万円《)当期利益》
06年
6月期
07年
6月期
08年
6月期
売上高
当期利益
《平成22年版》
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