ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2011年5号
特集
第1部 その時あの人はどう動いたか佐川急便──圧倒的なスピード復旧の舞台裏

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

MAY 2011  18 処を付けることも託されていた。
平間社長は逸る 気持ちを抑え、部隊を見送った。
 東北六県を統括する仙台市の東北支社では苦闘 が続いていた。
震災後すぐに電気、ガス、水道が ストップした。
東北支社に隣接する仙台店には自 家発電機がある。
そこに対策室を置き、社員の安 否確認を急いだ。
しかし携帯電話は繋がらず、震 災から三日経っても約一〇〇人の社員の安否がつ かめない状況だった。
 スーパーやコンビニでの買い占めは震災当日から 始まっていた。
当時の中谷幸二東北支社長(現・ 執行役員事業分析担当)は「対策室に泊まり込ん でいるスタッフのため、社員たちに買い出しに行か せたが、食糧はほとんど手に入らなかった。
仕方 なくたき火で水をわかし、カップラーメンを一人に 一個ずつ配った。
十三日に関東支社からの応援部 隊が到着するまで、口にできたのはそれだけだっ た」と振り返る。
震災四日後にトップが現地入り  三月十一日、佐川急便の平間正一社長は役員会 で京都の本社にいた。
揺れは京都でも強く感じた。
大規模災害であることが判明すると即座に災害本 部を立ち上げた。
その日は会議のために役員の多く が京都に集まっていた。
臨時的に京都と東京にそれ ぞれ対策本部を置いた。
京都の本部長には近藤宣 晃専務、東京の本部長には上岡亨常務が就いた。
 セオリーに反し、経営トップの本部長就任は避け た。
その理由を平間社長は「すぐに私は現地に入 ろうと決断した。
一番大変な場所にトップが足を運 ぶことが絶対に必要だと考えた。
過去に東北支社 長を経験したこともあるので土地勘もあった」と 説明する。
 翌十二日、対策本部を東京に統合した。
近藤専 務が本部長を務めることになった。
東北に精通し た幹部クラスの社員を次々に現地に送り込むと同時 に、平間社長自らも十三日に被災地に入るつもり で準備を進めていた。
 しかし、現地から「待った」の声がかかる。
今、 現地に入れば身動きがとれなくなる恐れがある。
状 況が安定するまで、しばらく現地入りは控えて欲 しいという。
現場の声を尊重し、十三日の現地入 りは断念せざるを得なかった。
 同じ日、関東支社からドライバー二〇〇人、トラ ック一〇〇台の大部隊が仙台に向けて派遣されて いる。
彼らに課せられたミッションは第一に現地社 員に救援物資を届けること、そしてそのまま東北 に留まり、被災した社員の安否確認や建物の復旧 を手伝うことだった。
応援部隊は国や自治体から の救援活動要請への対応や、サービス再開への目  3 月24 日、震災被害の著しい宮城県、岩手県、福島県 で宅配便の集配サービス再開に一番乗りを果たした。
そ の一週間前には営業店止めサービスも開始している。
強 烈なリーダーシップと現場の使命感が結びつき、圧倒的な 復旧スピードをもたらした。
         (石鍋 圭) 佐川急便 ──圧倒的なスピード復旧の舞台裏 関東の応援部隊を激励する平間社長   第1 部 その時あの人はどう動いたか 特 集 3・11どうなる物流 19  MAY 2011 3月16日 3月17日 3月18日 3月19日 3月20日 3月21日 3月22日 3月23日 3月24日 3月25日 3月26日 3月27日 3月28日 〜4月17日現在 青森 秋田 岩手 宮城 山形 福島 宅配サービスの展開状況(東北6 県) 青森 秋田 岩手 宮城 山形 福島 青森 秋田 岩手 宮城 山形 福島 × × × × × × 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 全域集配再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 営業店止め再開 本誌編集部が作成 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 一部集配再開 × × × × × × × × × × × ×   仙 台 に 入 っ た 応 援 部 隊 は 、 そ こ か ら 被 害 の 著 し いエリアへと振り分けられていった。
各地の状況が 徐々に明らかになってくる。
石巻店、気仙沼店、大 船渡店、仙台空港店は建物が全損、約五〇台の車 両が津波の被害で使えなくなったことが判明した。
 社員の安否確認を進めるのと並行して道路状況 の把握に努めた。
一四日には応援部隊の力を借り て、東北エリアでの配送も試みられている。
公式 には宅配サービスは停止している状態だったが、震 災前に集荷し、東北の各営業店に届けられていた 荷物が積み残っている。
これを可能な限り配達し ようという声が社員からあがった。
 中谷前東北支社長の指揮の下、オペレーションが 開始された。
だが、すぐに問題が生じた。
燃料の 枯渇だ。
東北エリア四五店のうち、一四店には燃 料を保管するインタンクが設置されている。
しかし その備蓄量は限定的で、平均すると一・五日分ほ どしか無かった。
 町のガソリンスタンドも大半が閉鎖していて、営 業していても長蛇の列。
安定的に給油できる状態 ではない。
本部にタンクローリーの要請もかけてい たが、状況が状況なだけに燃料の確保は困難を極 めた。
結局、この段階での配送は燃料が尽きた時 点での終了を余儀なくされた。
 三月一五日夜、平間社長が現地入りした。
到着 した翌朝から仙台店の社員や関東からの応援スタッ フを激励して回った。
仙台店のドライバー、三浦竜 太さんは言う。
「外出していて直接会うことはでき なかったが、社長が来たと聞いて正直驚いた。
ま さか来るとは思っていなかったから。
しかも来て くれた時期も早かった。
現場で働く僕らにとって は、やっぱり励みになる」  平間社長もまた「現場の士気はまったく落ちて いなかった。
『大丈夫か』と聞くと『社長、大丈夫 です』とみんな力強く返してくれる。
当社の社風 は古いと言われるかもしれないが、こういう時に は本当に頼もしい」と目を細める。
一社が動けば業界が動き出す  平間社長は中谷前東北支社長らと状況を確認し た上で、ある決断をする。
福島を除く東北五県に おける営業店止めサービスの再開だ。
顧客に営業店 まで来てもらえればトラックを動かす必要はない。
燃料が圧倒的に足りない状況下で、提供できる唯 一のサービスだった。
 当時はまだ被災地で正式に業務を再開している 物流企業は一社もなかった。
物流が完全にストップ 集配に当たるドライバーを鼓舞 MAY 2011  20 うごとに店舗での受け渡し作業は円滑になってい った。
余裕の出てきた社員達はまだ引き取りに来 ていない届け先に電話をかけ、荷物の到着を知ら せるようになった。
すると、多くの人から「取り に行きたいが、車の燃料が無くて行けない」とい  この問題を解消するた め、本社の輸送開発部が奮 闘した。
佐川は全国で一日 一万三〇〇〇本の幹線輸 送便を走らせている。
この ネットワークを日替わりで 緻密に組み直し、被災地で の燃料補給が必要なく、し かも空荷が極力発生しない 運用を工夫した。
「本社の この取り回しが無ければ、 営業店止めは再開できなか っただろう」と笹森東北支 社長は明かす。
 社員が出社するための 燃料も逼迫した状況だった が、一台の車に乗り合わせ たり、比較的給油しやすい ガソリンスタンドの情報を 共有することなどで何とか 対応した。
 営業店止め再開の反響は 想像以上だった。
被災地の 親戚や知り合いに宛てた食 料や薬といった荷物が、全 国各地から殺到した。
再開 初日の仙台店では、店の周 囲にとぐろを巻くように車の列ができた。
笹森東 北支社長は「店に荷物を受け取りに来た人からは 一様に感謝の言葉をいただいた。
物流が社会のイ ンフラであることを改めて実感した」と振り返る。
 一八日には福島でも営業店止めを再開。
日を追 している状況だった。
平間社長は「とにかく、ど こかの物流会社がまず手を挙げる必要があった。
そ うすれば他社も必ず続く。
物流が動けば復興への 第一歩を踏み出すことができる。
幸い当社は社員 の安否確認や被害状況の把握を比較的早く済ませ ることができた。
それならば、率先して事業を再 開するのが責務だと判断した」と当時の思いを明 かす。
 こうして、翌一七日から営業店止めが再開され た。
この時には中谷前東北支社長の後任となるこ とが決まっていた笹森公彰現東北支社長(三月二 一日付けで就任)もスケジュールを前倒しして仙台 に駆けつけていた。
現場は当面、中谷・笹森体制 で運営されることになった。
 笹森東北支社長は到着直後の現場の印象をこう 振り返る。
「大きな被害が出ているのに、社員の目 がまったく死んでいないことに驚いた。
佐川の社 風、社長の激励、中谷前東北支社長の努力。
色々 な要素があるのだろうが、これなら色々なことが できると確信した」  営業店止めを再開する上で、クリアしなければ ならない問題もあった。
最大のネックは幹線輸送 の取り回しだった。
通常、東北への幹線輸送は仙 台の中継センターで荷降ろしした後、現地で集荷し た荷物を帰り荷に積んで全国各地に向かって再び 走り出す。
しかし、東北エリアは集荷できる状況 にない。
 緊急時対応として空荷を認めたとしても、燃料 の問題が残る。
遠隔地からの幹線輸送車両は東北 で燃料を補給しなければならない。
燃料が無けれ ば、車両が東北に滞留してしまう。
東北以外のエ リアの幹線輸送にまで影響してしまう。
悪路の中の物資配送 道路状態は一向に安定しない 道の両脇には瓦礫の山 女川港は崩壊した 特 集 3・11どうなる物流 21  MAY 2011 の後も東北各地に足を運び続けた。
同時に、現場 や顧客の声に耳を傾けながら、集配エリアの拡大や 停止しているサービスメニューの再開を急がせた。
特に顧客からの反響が大きかったのが、集配と同 時に再開した代金引換サービス「e─コレクト」だ。
 東北全域では依然として品物が不足しており、 被災地の住民は買い物が出来ない状況が続いてい た。
物資を送ってくれる親戚や知人がいる人は良 いが、そうでない人も多い。
代引きサービスが再開 すれば、住民はインターネット経由で必要なものを 調達できる。
カード決済用の端末機や入金処理シ ステムが使える状態にあることを確認し、サービス インに踏み切った。
 この時の状況を平間社長は「もちろんある程度 できるという算段はついていたが、正直、入金管 理などの面で若干の不安を残した状態だった。
そ れでも困っているお客様のことを考えるなら、ス タートを見合わせるという選択肢は無かった」と 明かす。
 さらに三月二八日には東北全域で「飛脚クール 便」も再開している。
仙台市にあるクール便の拠 点だったニチレイの倉庫は、今回の津波によって流 されていた。
そのためサービスを停止していたが、 岩手や福島の倉庫を代替えとすることで再開にこ ぎ着けた。
従来に比べてリードタイムに遅れが生じ ているが、仙台市内での代替倉庫の確保にも見通 しがついており、間もなくその問題も解消される という。
 四月一日、応援部隊は関東へ引き上げた。
現地 社員だけで現場を回せる見通しがついたためだ。
笹森東北支社長は「まだまだ大変な状況は続くが、 我々が動かなければ東北全体の元気が無くなって タイミング良く東北支社の裏手にある天然ガスのス タンドも復旧した。
仙台エリアには約一〇〇台の 天然ガストラックがあるが補給のできない状態だっ た。
この車両が使えるようになったことで集配サ ービスの再開に現実味が帯びてきた。
被災地にトラックを走らせろ  三月二二日、被害の比較的少ない青森、秋田、 山形の全域で正式に集配をスタートした。
大きな 障害がないことを確認した上で、二日後の二四日 から岩手、宮城、福島の一部地域を除いた集配サ ービスを再開させた。
福島では原発のリスクを最大 限排除できるよう、万一の際の避難ルートの確保 や放射能のチェック体制を強化した。
 前出の仙台店ドライバーの三浦さんは「荷物を 取りに来れなくて困っている人のためにも、早く 荷物を運びたかった。
道路が陥没してたりして危 険なことも少なくないが、配送先や集荷先で『あ りがとう』と声をかけてもらえるのが嬉しい」と 言う。
 利用者にもその思いは届いている。
仙台市に住む ある男性は「震災 後、三回ほど知り 合いから荷物を送 ってもらったが、 一番早く家まで届 けてくれたのは佐 川さんだった。
困 っていたので本当 に助かった」と話 す。
 平間社長はそ う返事が返ってきた。
 平間社長はこのやり取りを聞いて、現場の社員 が次に何をしたいと言い出すのかすぐに分かった という。
「お客様の軒先までの配送や集荷をしたい と言い出すに決まっている。
実際、そういう声が 現場から次々にあがってきた。
じゃあ、やろうと。
当社のギャラクシーカラーのトラックを街中に走ら せよう。
少しずつでも日常の姿を取り戻していく ことで、被災者の方々を勇気づけよう。
そういう 思いで集荷・配達をスタートさせた」  本社の燃料購買部門の尽力もあり、その頃にな るとインタンクの軽油備蓄もかなり回復していた。
仙台市内で集配を再開。
利用者からは感謝の声 50台のトラックがスクラップに 仙台店でも建物に被害が出た 営業店止めサービスを再開する石巻店 MAY 2011  22 出して、拠点効率化の音頭を取ることにした。
物資 の窓口は一本化し、入ってきたものはカテゴリーご とにロケーションする。
その数量も管理する。
佐川 急便、自衛隊、市の役割を明確にすることで、拠 点の円滑化を図った。
ある自衛隊員は「佐川さん が来てスムーズに物資が流れるようになった。
我々 には機動力や運搬力はあるが、こういったノウハウ は無い」と言う。
津田知之営業開発課長は石巻総合公園の光景を目 の当たりにして、愕然としたという。
「既に市の職 員と自衛隊が入っていたが、どこに何が置いてあ るか全く分からない状態だった。
物資の受け入れ 窓口も自衛隊と市で分かれており、入ってきた物 資の情報も共有されていない。
まず集積拠点のオ ペレーションを整理することが先決だと考えた」  パン・おにぎりの配送という依頼内容を一歩踏み しまう。
その役割を認識し、腰を据えて業務に当 たりたい」と抱負を語る。
 また平間社長は「起きてしまったことは取り返 しようがない。
それよりも今後のこと。
物流を通 じ、これから顧客にどう貢献できるか、それを考 え、全力で実行することが重要だ」と言う。
混乱する集積所にメス  佐川急便はいち早く業務を再開する一方で、災 害支援にも積極的に取り組んでいる。
震災翌日の 早朝には日本赤十字社の要請に基づき、毛布など の救援物資を宮城県に届けた。
その後も国や地方 自治体、各県のトラック協会などからの要請に基 づき、東北各地で物資拠点の運営や避難所への物 資輸送などに当たっている。
 宮城県石巻市。
東日本大震災で最も甚大な被害 を受けた町の一つだ。
人口約一六万人のうち、現 在でも四万人余りが避難所生活を送っている。
避 難所の数は市が捉えているだけで一七〇カ所以上 にのぼる。
 佐川急便が石巻市からの要請を受け、関東の応 援部隊のうちトラック一〇台、二〇人のドライバー を送り込んだのは三月一九日のことだった。
救援 物資の拠点となっている石巻総合公園から周囲に 点在する避難所への物資輸送を依頼された。
 同社に任されたのは被災者の主食となるパンや おにぎりの配送だった。
パンやおにぎりは賞味期 限が短い。
集積所に到着後、翌日中に届けなけれ ば腐ってしまうものがほとんどだ。
しかし、一〇 〇を超える避難所に効率的に届けるにはプロのノウ ハウが必要になる。
責任は重大だった。
 震災以降、災害支援を担当してきた東北支社の 今では整然としたロケーション 管理が行われている 市の集積所となっている石巻総合公園 自衛隊の物資テント 賞味期限との戦いが続く 石巻では1日2回の救援配送を実施 簡易施設を設置し品目ごとに保管 特 集 3・11どうなる物流 23  MAY 2011 ストと避難者数、それと現状の在庫量を見合わせ、 過不足無く被災者に食料が行き渡るルート作りが求 められた。
しかし、実際に避難所を回ると避難者 の数が合わなかったり、無いはずの場所に避難所 が存在したりする。
時間の 経過と共に避難者は親戚が いると判明した避難所へ移 動したり、親しい者同士で 小さな避難所を形成してい く。
正確な情報をリアルタ イムで把握することは不可 能だった。
 そこで、午前と午後、一 日二回の配送を組むことに した。
午前の配送時に吸い 上げた情報を、午後の配送 に反映する。
その情報を日 用雑貨品を配送する自衛 隊の部隊や市の職員にも報 告する。
末端の配送情報を 共有することで、より効率 的に物資を行き渡らせよう と考えた。
 配送自体も困難を極め た。
道路の両端に積まれた 瓦礫はいつ崩れてくるとも 限らない。
タイヤがパンク でもすれば一巻の終わり。
通常の配送と比べてドライ バーの神経は著しく疲弊す る。
道路状況も通行止めや 開通が日々繰り返されて安 定しない。
 さらに関東からの応援部隊は土地勘がないので、 どうしても配送に時間がかかる。
しかし賞味期限 の問題があるので、配送を先延ばしにするわけに もいかない。
頭痛の種は絶えなかった。
それでも トラックを投入し続け、力技で難局を乗り切ってき た。
ピーク時には二〇台、現状は一六台で運営し ている。
 四月に入ると、救援活動のバトンが関東の応援 部隊から石巻店の現地社員へと移された。
現地社 員もまた被災者だが、地元のために役に立ちたい という一心で支援活動に臨んでいる。
 石巻の集積所で庫内管理に当たっているある社 員は「つらいのはみんな一緒。
一人ひとりが自分 にできることをするしかない」と笑顔で話す。
彼 は今回の津波で妻と子を亡くしている。
自身も津 波に飲まれたが、なんとか安全な場所まで泳いで 九死に一生を得た。
住んでいた家も流されたので、 現在は東北支社で寝起きしながら、避難者のため の活動を続けている。
 こうした活動が、石巻市の他、隣接する女川町 や東松島市でも繰り広げられている。
女川で支援 物資の配送に当たっているあるドライバーも「少し でも避難者の役に立ちたい。
何もしていないと塞 ぎ込んでしまうから、僕は仕事があってありがた いと思っている」と話す。
彼もまた住まいを無く し、親戚を亡くしている。
 彼らのような存在が被災地の物流を支えている。
原発の最前線で命を張る自衛隊員や消防隊員のよ うなスポットライトを彼らが浴びることはない。
し かし、その仕事の価値には何ら劣るところはない はずだ。
献身は今も続いている。
被災者が支える現地の物流  しかし、さすがの佐川急便も避難所への配送で は暗中模索が続いた。
市から渡された避難所のリ 物流が被災者の命を繋いでいる自衛隊員も積み込みに協力 被災者とは常に笑顔で接している女川の物資集積所

購読案内広告案内