2012年6月号
判断学
判断学
第121回 問われる経営者の責任 ──JR西日本、東京電力──
奥村宏 経済評論家
JUNE 2012 62
JR脱線事故の責任
「一〇七人が死亡、五六二人が負傷したJR宝塚線事故から
(四月)二五日で七年。
遺族が責任追及を託した裁判所は前社 長を無罪とした。
ならば、いったい誰に責任があるのか。
そも そも刑事責任を問うことの意味は何か。
多くの遺族が今なお答 えを見つけられないでいる」。
朝日新聞二〇一二年四月二三日付夕刊は「JR事故七年、怒 りを誰にぶつければ」という見出しでこう書いている。
JR西日本の宝塚線の列車が二〇〇五年四月二五日に脱線し て多くの死者、負傷者を出したが、その責任は誰にあるのか? この列車を運転していた運転手に責任があると言うかもしれ ないが、運転手はこの脱線事故で死んでいるので責任を問うこ とはできない。
そもそも、運転手は自分で勝手に列車を運転していたのでは ない。
それは会社の業務として運転していたのである。
その会 社=JR西日本は、線路が急カーブになっていることを認識し ながらそれを放置していた。
そのために脱線事故が起こったのだから、事故の責任は当然、 JR西日本がとるべきである。
したがってJR西日本という会社の刑事責任が問われるべき なのだが、日本の法律では会社=法人の刑事責任を問うことは できないということになっている。
そうなると、多数の死者を出したにもかかわらず誰も責任を 問われないということになる。
そこで山崎正夫前社長の責任が追及されたのだが、神戸地 方裁判所はこれに対して無罪判決を下した。
多数の人を殺し、怪我をさせたにもかかわらず、誰にも責任 がない、ということになった。
こんなおかしな話があるだろうか? これでも日本は法治国家と言えるのか? それは無法国家ではないか? 放射能汚染の責任 東京電力福島第一原子力発電所の事故から一年以上経った。
この事故によって放射能漏れが発生し、多くの住民に被害 を与えたが、その責任は誰にあるのか? 事故の責任は地震にあると言うかもしれないが、しかし日 本は地震国であり、これまでにもたびたび地震は起こってい る。
そこに原子力発電所を作れば、地震によって事故が起こ ることは初めからわかっている。
それにもかかわらず、東京 電力は原子力発電所を作ったのだから、この事故の責任は東 京電力にある。
だから東京電力は周囲の住民たちに対して損害賠償するこ とになったのだが、しかし事故の刑事責任は誰もとっていな い。
というよりも、この事故の刑事責任は全く追求されてい ないのである。
もし個人が相手を撲って傷を与えれば、当然のことながら 刑法によって罰せられる。
法治国家ではどの国でもそうなっ ている。
ところがこの日本では事故を起こして放射能を出し、他人 に被害を与えたにもかかわらず、その刑事責任は問われない ということになっているのである。
これほどおかしな話があるだろうか? だいいち、事故を起こした東京電力の会長、社長を始めと する経営者は誰も刑事責任を問われていない。
なるほど付近の住民には謝っているかもしれないが、それ は刑事責任を認めているからではない。
住民に移転などの被 害を与えたから損害賠償はするが、それ以上の刑事責任は全 く認めていない。
東京電力の会長や社長が退任したのは、会社に損害を与え た経営責任をとったためと言われる。
しかし、それをはっき りと認めたわけではない。
「辞めればよいでしょう」という だけのことである。
どんなに酷いことをしても企業は罰せられない。
脱線事故で多数の死 傷者を出したJR西日本や原発事故を引き起こした東京電力も、被害者 に損害賠償をするだけで、それ以上の刑事責任を問われることはない。
第121回 問われる経営者の責任 ──JR西日本、東京電力── 63 JUNE 2012 会社の代表者=経営者の責任 法人を刑法によって処罰することができないということは、 日本だけでなくアメリカやヨーロッパでもそうである。
しか し、罰金を科すことはできるということになっている。
これまで法人を罰するにはどうしたらよいか、ということ が法律家たちによって議論されてきた。
ところが、これには 法人擬制説、法人否認説、法人実在説という抽象的な議論 がからんで、こんがらがってしまっている。
私は多年にわたって法人資本主義論を展開してきた。
そ のなかで、法人を刑法によって処罰することはできないので あれば、法人の代表者=経営者を処罰すべきであるという ことを主張してきた。
法人=会社が所有している株式の議決権を行使するのは代 表取締役社長であるということになっているが、会社を代 表しているのは社長である。
そうだとすれば、会社が犯した犯罪についても、代表取 締役が責任をとらなければならないということになる。
JR西日本が起こした脱線事故の責任はJR西日本の社 長にあり、東京電力福島第一原子力発電所の事故の責任は 東京電力の社長にある。
もちろん、社長ひとりに責任があ るのではなく、経営者全員に責任がある。
というのも社長 という地位については法律上の規定はなく、会社が勝手に 決めているだけだからである。
この問題はあまりにも大きすぎる問題だとしてこれまで日 本の法律家の間ではあまり議論されてこなかった。
そのため に混乱した議論が横行しているのである。
そこでJR西日本の事故、東京電力の原発事故で改めて これが大きな問題になってきたのだが、それを問題にしてい るのは事故にあった被害者やその遺族たちで、法律家や学者 たちはまだこれを問題として取り上げていなかった。
そこで 私は『東電解体』でこのことを指摘したのである。
「法人には刑事責任はない」 個人が犯罪を犯せば刑法によって罰せられるが、法人であ る会社はいくら人を殺したり、傷つけたりしても罰せられな い。
被害者である相手に損害賠償はするが、それ以上の刑事 責任は問われない。
これが日本の法律体系であるが、こんな おかしなことがあるだろうか? もっとも、法人=会社を刑法で処罰するといっても、法人 を刑務所に入れることはできないし、死刑にすることもでき ない。
仮に会社を解散させたとしても、株主は別の会社を作 ることができる。
そもそも法人とは何か、ということは昔から大問題であっ た。
中世の教会は信者たちが寄付をして作ったものだが、そ れは神父のものではない。
そこで法律によって教会に人格を 与えた。
それが法人の始まりである。
それは人間ではないにもかかわらず、法律によって人格を 与えられただけのことである。
近代になって株式会社が次つぎと作られていったが、これ に対しても法律によって人格が与えられた。
それは取引上の 便宜のためであって、法人が人間であることを認めたわけで はない。
それによって株式会社は発展し、巨大株式会社になって生 産力を増大させ、資本主義を発展させていった。
しかしこれ がやがて人間に危害を加えることになった。
こうして公害や薬害はもちろん、欠陥車や原発事故などが 多発するようになった。
それでも法人=会社を刑法によって 罰することはできない。
これは誰が考えてもおかしな話であ るのに、それが日本ではあたりまえになっている。
このことが水俣病や薬害事件などで問題にされたのだが、 JR西日本の脱線事故、そして東京電力の福島第一原子力 発電所の事故によって改めて大きな問題として浮上してきて いるのである。
おくむら・ひろし 1930 年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『東電解体 巨大株 式会社の終焉』(東洋経済新報社)。
遺族が責任追及を託した裁判所は前社 長を無罪とした。
ならば、いったい誰に責任があるのか。
そも そも刑事責任を問うことの意味は何か。
多くの遺族が今なお答 えを見つけられないでいる」。
朝日新聞二〇一二年四月二三日付夕刊は「JR事故七年、怒 りを誰にぶつければ」という見出しでこう書いている。
JR西日本の宝塚線の列車が二〇〇五年四月二五日に脱線し て多くの死者、負傷者を出したが、その責任は誰にあるのか? この列車を運転していた運転手に責任があると言うかもしれ ないが、運転手はこの脱線事故で死んでいるので責任を問うこ とはできない。
そもそも、運転手は自分で勝手に列車を運転していたのでは ない。
それは会社の業務として運転していたのである。
その会 社=JR西日本は、線路が急カーブになっていることを認識し ながらそれを放置していた。
そのために脱線事故が起こったのだから、事故の責任は当然、 JR西日本がとるべきである。
したがってJR西日本という会社の刑事責任が問われるべき なのだが、日本の法律では会社=法人の刑事責任を問うことは できないということになっている。
そうなると、多数の死者を出したにもかかわらず誰も責任を 問われないということになる。
そこで山崎正夫前社長の責任が追及されたのだが、神戸地 方裁判所はこれに対して無罪判決を下した。
多数の人を殺し、怪我をさせたにもかかわらず、誰にも責任 がない、ということになった。
こんなおかしな話があるだろうか? これでも日本は法治国家と言えるのか? それは無法国家ではないか? 放射能汚染の責任 東京電力福島第一原子力発電所の事故から一年以上経った。
この事故によって放射能漏れが発生し、多くの住民に被害 を与えたが、その責任は誰にあるのか? 事故の責任は地震にあると言うかもしれないが、しかし日 本は地震国であり、これまでにもたびたび地震は起こってい る。
そこに原子力発電所を作れば、地震によって事故が起こ ることは初めからわかっている。
それにもかかわらず、東京 電力は原子力発電所を作ったのだから、この事故の責任は東 京電力にある。
だから東京電力は周囲の住民たちに対して損害賠償するこ とになったのだが、しかし事故の刑事責任は誰もとっていな い。
というよりも、この事故の刑事責任は全く追求されてい ないのである。
もし個人が相手を撲って傷を与えれば、当然のことながら 刑法によって罰せられる。
法治国家ではどの国でもそうなっ ている。
ところがこの日本では事故を起こして放射能を出し、他人 に被害を与えたにもかかわらず、その刑事責任は問われない ということになっているのである。
これほどおかしな話があるだろうか? だいいち、事故を起こした東京電力の会長、社長を始めと する経営者は誰も刑事責任を問われていない。
なるほど付近の住民には謝っているかもしれないが、それ は刑事責任を認めているからではない。
住民に移転などの被 害を与えたから損害賠償はするが、それ以上の刑事責任は全 く認めていない。
東京電力の会長や社長が退任したのは、会社に損害を与え た経営責任をとったためと言われる。
しかし、それをはっき りと認めたわけではない。
「辞めればよいでしょう」という だけのことである。
どんなに酷いことをしても企業は罰せられない。
脱線事故で多数の死 傷者を出したJR西日本や原発事故を引き起こした東京電力も、被害者 に損害賠償をするだけで、それ以上の刑事責任を問われることはない。
第121回 問われる経営者の責任 ──JR西日本、東京電力── 63 JUNE 2012 会社の代表者=経営者の責任 法人を刑法によって処罰することができないということは、 日本だけでなくアメリカやヨーロッパでもそうである。
しか し、罰金を科すことはできるということになっている。
これまで法人を罰するにはどうしたらよいか、ということ が法律家たちによって議論されてきた。
ところが、これには 法人擬制説、法人否認説、法人実在説という抽象的な議論 がからんで、こんがらがってしまっている。
私は多年にわたって法人資本主義論を展開してきた。
そ のなかで、法人を刑法によって処罰することはできないので あれば、法人の代表者=経営者を処罰すべきであるという ことを主張してきた。
法人=会社が所有している株式の議決権を行使するのは代 表取締役社長であるということになっているが、会社を代 表しているのは社長である。
そうだとすれば、会社が犯した犯罪についても、代表取 締役が責任をとらなければならないということになる。
JR西日本が起こした脱線事故の責任はJR西日本の社 長にあり、東京電力福島第一原子力発電所の事故の責任は 東京電力の社長にある。
もちろん、社長ひとりに責任があ るのではなく、経営者全員に責任がある。
というのも社長 という地位については法律上の規定はなく、会社が勝手に 決めているだけだからである。
この問題はあまりにも大きすぎる問題だとしてこれまで日 本の法律家の間ではあまり議論されてこなかった。
そのため に混乱した議論が横行しているのである。
そこでJR西日本の事故、東京電力の原発事故で改めて これが大きな問題になってきたのだが、それを問題にしてい るのは事故にあった被害者やその遺族たちで、法律家や学者 たちはまだこれを問題として取り上げていなかった。
そこで 私は『東電解体』でこのことを指摘したのである。
「法人には刑事責任はない」 個人が犯罪を犯せば刑法によって罰せられるが、法人であ る会社はいくら人を殺したり、傷つけたりしても罰せられな い。
被害者である相手に損害賠償はするが、それ以上の刑事 責任は問われない。
これが日本の法律体系であるが、こんな おかしなことがあるだろうか? もっとも、法人=会社を刑法で処罰するといっても、法人 を刑務所に入れることはできないし、死刑にすることもでき ない。
仮に会社を解散させたとしても、株主は別の会社を作 ることができる。
そもそも法人とは何か、ということは昔から大問題であっ た。
中世の教会は信者たちが寄付をして作ったものだが、そ れは神父のものではない。
そこで法律によって教会に人格を 与えた。
それが法人の始まりである。
それは人間ではないにもかかわらず、法律によって人格を 与えられただけのことである。
近代になって株式会社が次つぎと作られていったが、これ に対しても法律によって人格が与えられた。
それは取引上の 便宜のためであって、法人が人間であることを認めたわけで はない。
それによって株式会社は発展し、巨大株式会社になって生 産力を増大させ、資本主義を発展させていった。
しかしこれ がやがて人間に危害を加えることになった。
こうして公害や薬害はもちろん、欠陥車や原発事故などが 多発するようになった。
それでも法人=会社を刑法によって 罰することはできない。
これは誰が考えてもおかしな話であ るのに、それが日本ではあたりまえになっている。
このことが水俣病や薬害事件などで問題にされたのだが、 JR西日本の脱線事故、そして東京電力の福島第一原子力 発電所の事故によって改めて大きな問題として浮上してきて いるのである。
おくむら・ひろし 1930 年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
近著に『東電解体 巨大株 式会社の終焉』(東洋経済新報社)。
