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MAY 2004 64
重労働から解放される
!?
一月某日。
幸運は何の前触れもなくやってくる。
その日の朝しばらくの間、ホワイトボードに貼ってあるはずの自分の名前が見つからな
かった。 「ピッキング」の下が定位置のはずな
のに、そこに私のネームプレートがない。
アルバイトは朝礼前、ホワイトボードに貼
ってある自分の名前にチェックを入れる。 そ
の日の作業割り振りと出欠を確認するためだ。
いつもアウトバウンド(出荷)のところに
ある私の名前は、インバウンド(入荷)のと
ころにあった。 私を含めて八人の名前が囲ん
であり「十一時からトレーニング」とあった。
朝礼後に聞きに行けば、「十一時までは通常
通りピッキングをして、もう一度朝礼の場所
に集合するように」とのことだった。
十一時に行くと、荷主の社員が二人待って
いた。 男女四人ずつのアルバイトを二組にわ
けて、荷主の社員が言った。
「これから三週間ずつ、レシービングとストー
イングのトレーニングを行います」
それを聞いて、胸がドキドキした。
以前に、センター内には荷主の社員をトッ
プとする身分制度があることを話した。 身分
はさらに細分化され、アルバイトにも存在す
る。 アルバイトの場合、担当する作業によっ
て身分の上下が決まる。 序列のトップにくる
のはレシービング(荷受け・検品)とストー
イング(棚入れ)である。 次に梱包・出荷。 そ
の下に最も重労働であるピッキングがきて、ア
ルバイト見習いはピッキングからスタートす
る。 ピッキングは、アルバイト見習いの?根
性だめし〞のような意味合いもある。 ここで
音を上げるようでは、次に進む権利を手に入
れることができない。
アルバイト見習いからレシービングやスト
ーイングまでにたどりつくには一年はかかる
だろう、と私は思っていた。 長い道のりであ
ろう、と。 そのチャンスが、わずか二カ月で
めぐってきた。 作業序列からいえば一気に三
段跳びの?出世〞である。
時給はいずれも八五〇円で変わりがない。 し
かしインバウンドが格上であることは、アウ
トバウンドの作業は物流業者の社員が説明す
るに対して、インバウンドは荷主社員が説明
することからもわかる。
アルバイトにとって、インバウンドの作業
が?出世〞と見なされるのは、作業がだんぜん楽だからだ。 レシービングはコンピュータ
ーの前に立ったままの作業だし、ストーイン
グは専用端末を手にして一〇〇個の商品を空
きスペースを見つけて棚入れするだけでいい。
ピッキング同様にノルマはあるものの、広い
センターを歩きまわって商品を探すのと比べ
ると作業量や緊張感において天と地ほどの開
きがある。 同じ時給なら、楽な仕事を割り当
てられた方が?お得〞なのだ。
しかし私がドキドキした一番の理由は、仕
事が楽になるからではなかった。 インバウン
ドの作業につくことができれば、この物流セ
辛いピッキングを抜け出してインバウンドへと
“昇進”するチャンスは、ある日突然めぐってき
た。 しかも働きはじめてわずか2カ月という短期
間で。 しかし、アルバイト期間中で最大のチャン
スは、無情にも掌から砂がこぼれ落ちるように逃
げていった。
不運が重なり水泡に帰した“出世”
第4回
65 MAY 2004
ンターの業務の中核に少しでも近づくことが
できて新たな発見につながると考えたからだ。
パスワードを忘れてしまった
しかし、そうは問屋がおろさないのである。
荷主の男性社員について二階に上がった。
「ハンド端末を立ち上げて、みなさんのパスワ
ードを入力して下さい」
パスワード‥‥‥
この言葉を聞いたとたん、期待感が急にし
ぼんでいくのを感じた。 掌にいやな汗がにじ
んできた。 ポケットの財布の中からもパスワ
ードは見つからないし、ロッカーに戻ってバ
ックパックをひっくり返してもでてこなかった。
ここでは全ての作業の前に各自がログイン
をして記録に残すのだ、と何度か説明した。 ピ
ッキングのときは、パスワードと一緒に渡さ
れたバーコードをスキャンするだけで、パスワ
ードを入力したことになっていた。 ほとんど
のアルバイトはバーコードを使っていた。
たしかに、パスワードを手渡されたとき、勤
務中は常に携帯するようにいわれてたのだが、
同時に、うっかりなくしてだれかが悪用して
商品が盗まれた場合は、なくした本人が全責
任を負うという恐ろしげな注意書きがついて
きた。 センター内にある五〇万点の在庫の責任を
とらされたのではかなわない、と私は思った。
バーコードが悪用されることもあるのだろう
が、これは毎日必要なのだから持っていかな
ければならない。 しかし、当分使う当てのな
いと思っていたパスワードは、用心深く自宅
の机の奥深くにしまっておいたのだ。
そう考えたのは、私一人ではなかった。 この
日、突然のご指名をたまわった八人のうち四
人がパスワードを持っていなかったのだから。
「困りましたね。 物流業者の担当者の方に聞
いてみてください」
と荷主の社員は言う。
それにしても、荷主と物流業者の間は、ど
れほど意思の疎通がはかれているのだろう。 ト
レーニングを受ける八人のうち三人までが、一
月いっぱいで辞めるので、六週間のトレーニ
ングは受けることができない、という。 しか
も、すでにその旨は報告済みだというのだ。
私は一〇分以上かかって一階でフォークリ
フトに乗っているインバウンドの担当者を見
つけた。
「パスワードを持ってないと、どうしようも
ないね」
と一言。 そのさげすむような顔には「はい
残念でした。 チャンスは一回でおしまい。 パ
スワードを持ってこなかったあなたが悪い」と
書いてあるようだった。 その一言で、またピ
ッキングに逆戻り。 まさに天国から地獄であ
る。
このアルバイト期間中で、最悪の失敗。 ア
ルバイト中で最大のチャンスを逃した気がし
た。 そして、二度と?出世〞のチャンスが回
ってこないような気がした。
曖昧な選定基準
悔しくて、その日はピッキングどころでは
なかった。 ここでの取材は、待ちの姿勢を強
いられるので、何か起こったときにものにで
きないのでは、悔やんでも悔やみきれない。
呆然としたままでピッキングをしながら、い
ろいろな考えが浮かんでは消えていった。
考えは、だれがどんな基準でアルバイトの
?出世〞を決めるのだろうという点を中心にぐるぐると回りつづけた。 ピッキングのスピ
ードか正確さか。 勤務期間の長短か、勤務態
度か。 それとも残業時間の多寡か。 どれ一つ
とっても、私が他のアルバイトより優れてい
るようには思えないのだが。
それなら履歴書に書いた「大卒」という学
歴が物を言ったのか。 中卒や高卒では、コン
ピューターの操作は任せられないというのだ
ろうか。 たぶん、それも違っているだろうな。
人選しているのは物流業者で、おそらく、そ
の理由は偶然というのが、正解に近そうだ。 ピ
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ッキングのスピードや正確さも多少は考慮さ
れるのだろうが、それ以上に、トレーニング
を行う日にたまたま出勤していた中から選ん
だのだろう。
もし確固たる基準があるのなら、事前にト
レーニングを行うことを伝えられるはずだし、
パスワードを忘れたとしても、「次回のトレー
ニングのときには必ず持ってきてください」と
いう話になるはずだから。
ここでは、アルバイトが関心を持っている
ことには、ほとんど説明がない。 情報量が少
ない分、アルバイトは疑心暗鬼になり、ある
者はどうすれば気に入られるのかと卑屈なく
らい従順になり、またある者はバカらしくて
やってられない、と辞めていく。
アルバイトの操縦方法の一つとして、秘密
主義が幅を利かせていることはたしかなよう
だ。
そういえば、この物流業者の先代の○×社
長が二期八年トップに君臨する間、社内に秘
密主義を徹底させたといわれていたのを思い
だした。 社内では、第一線を退いたのちも畏
怖と侮蔑を込めて「秘密主義の○×さん」と
呼ばれていた。
私の記者時代は、○×社長時代とぴたりと
一致する。 そして私は数年間、この業者を担
当して毎週のように取材を申し込んでいた。 し
かし、現場を見せてもらった記憶はほとんど
ない。 本社の広報室で、担当者の話を拝聴で
きればいい方だった。
○×元社長に発した秘密主義の体質が、数
年かかって末端の物流センターにまで浸透し
たというのだろうか。 日本中にある、この業
者の物流センターが、同じような秘密主義で
運営されているのだろうか。 そこで働くアル
バイト同志たちに思いを馳せた。 予感したとおり、アルバイトをつづけた約
半年の間、インバウンドのトレーニングを受
ける機会は二度と回ってこなかった。
人生初の?無断欠勤〞
一月下旬の日曜日のこと。
この日は朝から漠然とした違和感を感じて
いた。 その原因は朝の出勤簿だった。
前日の土曜は休んで、日曜に出勤してきた
のだが、出勤簿には休んだ日についているは
ずの〈欠〉のマークが抜けていた。 おかげで、
土曜日の欄に印鑑を押したあとで間違いに気
づき、もう一度日曜に押し直した。
働きはじめて二カ月の間、土日は家人が子
どもの面倒を見てくれるので、これまで一日
も休まずに出勤していた。 しかし、二日前の
金曜の夜、数年ぶりに高校時代の友人たちと
集まることになっていたので夜遅くまで飲む
ことになると思い、翌日の土曜を休むことに
したのだった。
出勤簿のことは何かの手違いだろうと思い
直して、いつものように朝礼に向かった。 朝
礼前に、昨年の同じ時期に働きはじめた山本
君を見つけて言葉を交わす。 都内の大学四年
生で、四月からブライダル関係の会社に就職
が決まっているという。 就職難の時代にたい
したものだ。
どうしてここでバイトをしているのか、と
尋ねると
「卒業試験が終わったら、二週間ほどイタリ
ア旅行に行くんです。 旅行代金の七万円は払
ったんですけど、おみやげ代とかを稼ぎたく
って」
オフ・シーズンとはいえ、二週間で七万円
とは安すぎないか。 しかも飛行機代に加えて
朝食つきの宿代まで込みの金額だという。
「大手の代理店なので大丈夫ですよ」
と屈託のない若者なのだ。
朝礼が終わると、山本君と一緒に二階のピ
ッキングエリアへと向かった。 いつも通りの
スケジュールをこなしながらも、出勤簿のこ
とが引っかかっていた。 帰り際に、アルバイ
トの出勤スケジュールを見て、はじめて事態
が飲みこめた。
前日の土曜、私は無断欠勤したことになっていたのだった!
アルバイトは金曜日に翌週のスケジュール
を口頭で告げるようになっている。 これまで
私は、このスケジュールが翌日の土曜から金
曜日までのスケジュールのことだと勘違いし
ていた。 だから二日前の金曜に、「土曜は休み
たい」と伝えたとき、翌日の土曜を休むつも
りだったのだ。
しかし、金曜日に伝えるスケジュールは日
曜から土曜までのものだった。 つまり、私が
休みたいと申告した土曜は、一週間後の土曜
だったのだ。 かくして、私は無断欠勤となっ
67 MAY 2004
た。 だから、いつも休みの日に押してあった
〈欠〉のマークが抜けていたのだ。
何と不名誉なことであろう。 生まれてはじ
めての無断欠勤である。 サラリーマン時代は
もちろん、学生時代のアルバイトを振り返っ
ても無断欠勤は思い当たらない。 胃の腑から
苦酸
にがず
っぱいムカムカした気持ちが口元まで上
ってきた。 とにかく、その日は事務所に立ち
よる気になれず、逃げるようにしてバスに乗
り駅へと向かった。
物流業者の怠慢
「二カ月も働いて、スケジュールのこともわか
ってなかったのか」
と不信に思う向きもあるだろう。
たしかに、スケジュールを把握してなかっ
たのは私に非がある。 がしかし、先に話した
とおり、ここはまともに説明が行われること
がきわめて少ない職場なのである。 基本的と
思えるような事柄でも、説明をはしょったま
ま進んでいくのだ。
自分で言うのもなんだが、人並み程度には
目端の利く方だと思っている。 状況判断能力
のテストがあるなら、平均点を超える自信はあ
る。 しかし、ここで働いていると自分がひど
く愚か者になったような気がしてくる。 それ
は、ここを仕切っている物流業者の管理能力
の低さに起因しているように思えてならない。
十一月に働きはじめたのが土曜だった。 よ
く日曜に出勤すると、その週が全て休みにな
っていた。 事務所で聞けば、
「うちは金曜にスケジュールを申告することに
なっているんです。 聞いてませんでした?」
き・い・て・い・な・い!
説明の省略はスケジュールに限ったことで
はない。
?無断欠勤〞から一カ月ほど経ったある日の
こと。 朝、事務所の前に人だかりができてい
た。 その視線をたどると、物流業者の健保組
合持ちで健康診断が受けられるという張り紙
があった。 その横には、五〇人ほどの名簿が
あった。
二〇〇人ほどいるアルバイトの中の五〇人
である。 もちろん、私の名前もない。 張り紙
の前で女性陣が顔を見合わせている。
「これは一日だけなのかしら」
「みんな受けられるわけじゃないみたいね」
「どんな基準で選んでいるのかしら」
いずれももっともな質問である。 しかし、そ
の答えはどこにも書いてない。
あとで聞いた事情通たちの話を総合すると、
一年以上働いて、一定の勤務時間を超えた人
たちが対象なのだそうだ。 つまり、一種のイ
ンセンティブである。 それならそうとほんの一
言書くだけで足りるのに、なんとも思わせぶ
りなやり方である。
一事が万事この調子である。 お気楽という
か、手抜きというのか。 ?無断欠勤〞の件も、
一度でもきちんと説明を受けていたのなら、素
直に非を認める気になっただろう。 しかし、物
流企業の管理とも呼べないようなお粗末なや
り方の下で働いていると、
「あなたたちに、四の五の言われたくないよ」
と憎まれ口の一つでもたたきたくなる。
ここでの管理の基本は、「聞けば教えてあげ
るよ」という受け身一辺倒の態度であり、わ
からないことを聞くのはアルバイトの責任で
あり、聞かずに何かを間違えればそれはアル
バイトの減点につながる。 そもそもの前提と
なる最初の説明が省略されているにもかかわ
らずである。
つまり、いい加減のつけはアルバイトに回
ってくるのである。 こんなやり方では、アル
バイトはやる気をなくす一方であり、センタ
ーの生産性が下がることはあっても、上がる
ことはまずない。
?無断欠勤〞によるむかつきは、翌朝まで持
ち越した。 送迎バスを降りて、事務所に入る
と例のEQの低い〈ウド課長〉と目があった。
一番会いたくない相手だが仕方がない。 スケ
ジュールを誤解していたことを話すと、得意
の不機嫌な声で、
「ちゃんとやって下さい。 みんなやっている
ことですから。 こんなことがつづくようでは困
りますよ」
と説教を垂れる。
私は山ほどある言いたいことを全部飲み込
んで、
「わかりました」
と一言。
事務所をでるとき、ムカムカした気分が吐
き気に変わっていた。
(文中はいずれも仮名)
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