ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2004年6号
やらまいか
商売の原点はうどん売り

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

JUNE 2004 66 自転車引いてうどんの行商 繰り返しになるけど、オレの実家はうどん 屋だった。
うどん屋といっても製麺のほうだ。
典型的な田舎のうどん屋で、なんとか食える 程度に細々と商売しているような店だった。
兄 貴が二代目として店を手伝っていたが、家を 出たり入ったりしてなかなか定着しない。
実 際には親父と母親が二人で店を切り盛りして いた。
これも何度も説明したが、オレは十一人き ょうだいの一〇番目だった。
一番上のきょう だいとは親子くらい年齢が離れている。
そんな わけでオレが小学生になる頃には親父と母親 は結構いい歳になっていた。
二人だけで店の 仕事をすべてこなすのは体力面でとてもしんど そうだった。
うどんは腐りやすい。
だいたい一日保てばい いほうだ。
作ったらその日のうちに売ってしま わないと捨てる羽目になる。
もったいない。
も ともと、こしらえたうどんは店で販売していた が、それだけではいくらも売れないから、その うち自転車で近所を回って売り歩くようにな っていた。
自転車の荷台にうどんが一〇玉入った箱を たくさん積む。
一〇箱も積めば、結構な重さ だ。
引いて歩くのは容易ではない。
年老いた 両親にとって自転車でのうどん売りはかなり の重労働だったに違いない。
可哀想だった。
だから小学校高学年くらいになると店の手 伝いとして、両親の代わりにオレが自転車を 引くようになった。
毎日、学校から帰ってく るとすぐにうどん売りに出掛けた。
一〇玉一 箱を十二箱で合計一二〇玉。
これが自分自身 に課した一日の販売ノルマだった。
友達と遊 びたい気持ちを抑えて、来る日も来る日もう どん売り。
「なんて親孝行な息子さんなんだ」 と、当時は近所の大人たちに感心されたものだった。
両親を助けるために自分を犠牲にする模範 的な少年――。
まさか。
本当にそうだったら格 好良かったんだろうな。
でも現実はだいぶ違っ ていた。
店の手伝いはいやでいやでしょうがな かった。
放課後くらい友達たちと自由に遊び たい。
それが本音だった。
しかし?両親から 課せられた〞一二〇玉の販売ノルマをクリア しなければ、遊ぶことを許してもらえなかった。
毎日この仕事があったから少年野球チーム には入れなかったし、中学校ではクラブ活動 もできなかった。
学校が終わったら真っ直ぐ 家に帰って自転車を引いてうどん売り。
近所 第15回「 商 売 の 原 点 は う ど ん 売 り 」 小学校の高学年くらいから家の商売の手伝いでうどん売り を始めた。
毎日一二〇玉が販売ノルマだった。
それが終わる までは友達と遊ばせてもらえない。
さっさと売り捌いてしま うコツはないか。
しばらく経つといいアイデアを思いついた。
大須賀正孝ハマキョウレックス社長 ――ハマキョウ流・運送屋繁盛記 《前回までのあらすじ》 西瓜や梨、サツマイモを畑 から拝借するのが得意だった。
どうすれば見張りの大 人に見つからないか。
小さい頃から色々と知恵を、ど ちらかというと悪知恵を絞るのは天下一品だった。
中 学生になると校内で女の子たちの弁当の盗み食いにも 手を染めた。
こちらも全然バレずに時効を迎えること ができた。
67 JUNE 2004 を回っていると、大人たちに馬鹿にされたり、 「うどんなんか要らねえよ」って渋い顔をされ たり、イヤな思いをすることも少なくなかった が、そんな生活を数年間我慢しながら続けた。
同級生たちに「お前ら、買え」 当時はいかに早くうどんを売り捌いて、友 達たちと遊ぶ時間を作るかに一生懸命だった。
一二〇玉売ってしまえば、あとは夕飯の時間 まで好きなように過ごすことができた。
とはい え一二〇玉という数は半端じゃない。
四人家 族の家に一人一玉ずつ売ったとしても三〇軒 必要な計算になる。
最初のうちはなかなか完売できなかった。
し かしそのうち一〜二時間もあれば、すべて捌 けるようになった。
コツ? そんなものはない。
頭を使えばいい。
どんなに好きな家でも毎日 はうどんを食べない。
「この家は一〇日に一回」、 「この家は一週間に一回」といった具合に、う どんを食べるサイクルというのはだいたい決ま っている。
それをきちんと記憶しておいて、そ のタイミングがきたら各家庭を訪問するだけだ。
短時間で売り捌くためには大口の顧客が欠 かせない。
当時、オレにとっての最大の得意 先は織屋さんと呼ばれていた紡績工場だった。
そこで働く女工さんたちがうどんをたくさん買 ってくれた。
織屋さんに行けば、毎日コンスタ ントに数十玉は売れた。
一般家庭と織屋さんで合計七〇玉はかたか った。
問題は残りの五〇玉をどう売り捌くか だった。
でも大丈夫。
実は織屋さんのほかに、 もう一つ得意先があったからだ。
学校の同級 生たちだ。
うどんをのせた自転車で校庭にいく と、同級生たちがうどんを買ってくれた。
そう やってみんながオレのことを助けてくれたのだ。
「お前ら、買え」といって強制的にうどんを 売りつける? 確かにそんな日もあったな。
た だし毎日ではない。
どうしても売れ残ってしま いそうな時だけだ。
当時のオレは身体は小さ かったけど、腕っ節が強くて喧嘩がものすごく 得意だった。
地元では敵なしだったから、オレ が差し出したうどんを「要らない」といって断 れる同級生はほとんどいなかった。
こうして子供の頃はほぼ毎日うどん売りの 手伝いをさせられたわけだが、本当にこの仕 事がイヤでイヤで仕方なかった。
しかし、いま となってはうどん売りにとても感謝している。
うどん売りの経験が物流通業の仕事に役に立 っているからな。
オレはどんな商売でも成功するためには日々 の「段取り」が大切だと思っている。
「段取り」 というのは準備や用意のことを指す。
うどん 売りの場合は、どういうルートを回れば、うど んを完売できそうか。
過去の販売実績からそ れを予想し、準備しておくことが「段取り」と なる。
「段取り」をせずに闇雲に売ろうとして もうどんは売れない。
物流センターの運営も同じだ。
予め出荷量 を把握していれば、作業員の最適配置が可能 だ。
時間通りに作業を終わらせることもでき る。
ところが反対に「段取り」をきちんとせず に行き当たりばったりでやろうとすると、余計 な作業員を配置してしまったり、逆に作業員 が少ないために残業が必要になったり、無駄 が生じてしまう。
中学生で自動車を運転 うどん売りのほかに、いまの商売に役立っ ていることといえば、自動車を運転できるよう になったことだった。
自慢じゃないが、オレは 中学三年生で自動車を自由自在に操ることが できた。
自動車といっても運転できたのはクロ ガネとかダットといった三輪車だけどな。
運転 技術は通っていた中学校で習った。
三輪車を所有していたのは中学校の自動車 部だった。
当時、地元では自動車部がある中 学校は珍しかった。
車は村長さんがハイヤー として使用していたのを役場から払い下げし てもらったものだった。
前にも説明したが、オ レはうどん売りの仕事があったため放課後に 中学3年生で自動車を運転できる ようになった 前は魚屋だったが、そこに買い物にきたふりを して相手の親たちが魚屋の店員にオレのこと を尋ねていく。
「向かいのうどん屋の倅はどう なんだ?」と。
すると店員がこう答える。
「あ んなヤクザ者とは結婚しないほうがいいよ」。
そ れで結婚話はすべてパーだ。
唯一、尻込みしなかったのがいまの女房だ。
オレのお袋は、女房に「ウチの息子は近所で ヤクザ者といわれているが、本当に結婚しても らえるのか」と聞いたらしい。
それでも女房は 構わないといって結婚してくれた。
だからいま でも女房には頭が上がらない。
確かにオレは若い頃、色々と悪いことをし ていたが、警察の厄介になるようなことはして いない。
当時の悪さというのは許される悪さだ。
いまの若い連中とは違って陰険な悪さではな い。
愛嬌があった。
被害を受けた相手が「仕 方ねえなあ」と笑って諦めてくれるような悪さ だった。
映画の無料鑑賞なんていい例だ。
オレは若 JUNE 2004 68 部活動ができなかったから、自動車部の連中 にお願いして、空いている時間などに三輪車 で遊ばせてもらった。
中学生だから当然免許はもっていない。
運 転の練習は一般道ではなく、もっぱら中学校 の校庭で行った。
校庭は広いからハンドル操 作を多少誤っても事故にならない。
練習する には絶好の場所だった。
当時はまだ自動車そ のものが珍しい時代だったから、男子生徒の ほとんどが三輪車に興味津々。
そのため、少 しの時間を順番で三輪車に乗らせてもらった 記憶がある。
昔の自動車はいまの自動車と違ってエンジ ンを起動させるのにとても苦労した。
特に冬 の寒い日はエンジンが掛かりにくく、エンジン が暖まるまで一時間程度掛かることも少なく なかった。
運転そのものよりもエンジンを起動 させるコツを掴むことのほうがよっぽど難しか った。
こうして運良く中学生の時に自動車の運転 を経験できたため、運転免許の取得は楽だっ た。
教習所に通わなくても試験は一発で合格。
オレは三月が誕生日の早生まれだけど、運転 免許を取ったのは中学の同級生の中で二番目 に早かった。
もし中学校に三輪車がなかったら、運転免 許を取ろうという気にはならなかったはずだ。
その後トラック運送の仕事に興味を持たなか ったかもしれない。
そもそも三輪車の運転を 始めたのは女子生徒たちに「格好良い」姿を 見せたかったから。
オレだけなく、ほかの男子 生徒たちも似たような動機だったに違いない。
当時の男子生徒たちはみんな、だいたい同 じ女の子に好意を寄せていた。
どんなタイプの 娘が人気だったのか? それは昔も今も変わ らない。
一言でいえば、可愛い娘だ。
オレが 好きだった娘の名前はもう忘れてしまったが、 学校ではアイドルのような存在だった。
その娘 に何とかいいところをアピールしようと思って、 みんなで競ったことの一つが三輪車の運転だ った。
いまと違って昔は学校の中で男子生徒と女 子生徒が会話を交わすことなんてほとんどな かった。
特に田舎の学校ではそうした傾向が 強かった。
用件を伝える程度の会話はあった。
しかしみんなの前で男女が個人的な話をする ことはない。
必要な場合は校舎の裏などに隠 れて会話をするような時代だった。
男子生徒 と女子生徒が互いに好意を寄せていても「付 き合う」ことには発展しなかった。
反対され続けた結婚 結婚したのは二三歳。
それまでそれなりに 女性と付き合ってきたが、なかなか結婚まで には至らなかった。
結婚すれば、食べることに 困らなくなるだろうと考えていたから、オレは 早く結婚したかった。
しかし、ことごとく相手 の親に反対され続けた。
結婚の話が持ち上がると相手の親がウチの 近所にオレの評判を聞きにくるんだ。
ウチの 「ヤクザ者でも構わない」といっ てくれた女房と23歳で結婚した 69 JUNE 2004 い頃、切符きりの人の目を盗んで映画館に侵 入してタダで映画をみていたが、恐らく当時 切符きりの人はオレのことを見て見ぬふりをし てくれていたのだろう。
ちなみに映画館にはこうやって侵入した。
昔 の映画はニュースのあとに近日公開となる映 画の予告が入り、その後に本番が始まる。
ニ ュースと予告のあとにはしばらく照明がついて いる時間帯がある。
そしていよいよ本番となる わけだが、オレが畳の座敷席に潜り込むのは 本番の上映のために照明が消えた瞬間だった。
消灯直後は目が慣れないため、しばらく真っ 暗で何も見えなり、誰が侵入したか分からな くなるからだ。
その間にオレは空いている座敷 席に座ってしまう。
近所の大人から教えてもらった「うなぎ漁」 も、許される悪さの一つだった。
この「うなぎ 漁」は自転車を使ったまったくのオリジナル。
かつてやり方を間違った人が死んでしまったこ ともあった命懸けの漁だった。
まず自転車についている、ライトを点灯さ せるためのモーターにつながる電線を外して、 その先端を手で持って川の中に入れる。
そし て発電させるために仲間に自転車を漕いでも らう。
それによって川の中の水に電気が流れ る。
電気ショックで死んだうなぎがプカプカ浮 いてきたら、それを捕獲するという荒手の漁だ。
自転車を二台使用すると水中を流れる電気 量が多くなる。
その結果、うなぎもたくさん捕 れる。
ただし電気量が多くなると、それだけ川 に電線を沈める役回りの人の危険度が増す。
感 電する恐れがあるからだ。
感電しないようにす るコツは肘を曲げた状態で電線を持つこと。
腕 を真っ直ぐにすると、電流が抜けていかずに 心臓に入り、ショック死してしまうのだ。
うなぎは感電しやすいため、すぐに水面に 浮いてくる。
ただし電気が流れることで体内 の骨が全部折れてしまい、食べにくくなるとい う弱点もあった。
それでも当時、うなぎは貴 重な食べ物だった。
喧嘩必勝法 しかし、喧嘩だけは今も昔も許されない悪 さだ。
オレは一七、一八歳になるまで毎日の ように喧嘩をしていた。
いったん喧嘩が始まれ ば、オレは相手が起きあがれなくくらいまでボ コボコにしてしまう。
傷害罪で捕まってもおか しくないくらいだった。
オレは身体が大きくなかったが、喧嘩が強 かった。
喧嘩のコツを掴んでいたからだ。
例え ば、相手の番長は必ず子分たちを従えている。
オレが最初に相手をするのはその子分のうち の一人だった。
見せしめのため、そいつをめち ゃくちゃになるまでぶん殴るんだ。
すると、そ れを見た番長は腰が引けてしまい、使いモノ にならなくなる。
身体の大きな相手と喧嘩するときは、相手 の股間を攻撃した。
男というのはココが一番 弱い。
攻撃の際は足で蹴るのではなく、手を 使うようにした。
足だとコントロールが難しい が、手なら確実にヒットできるからだ。
股間を 痛がっているうちにボコボコにしてしまえば、 まず負けることはなかった。
いつ喧嘩になってもいいように、ズボンのポ ケットの中には常に小石を入れておくようにし た。
手のひらに小石を握ってパンチすると、握 らない時よりも衝撃度が増すからだ。
小石を 握っているとベニヤのような板なら簡単に割る ことができた。
小石を握るのと握らないのとで はそのくらいパンチ力が違った。
(以下次号に続く) おおすか・まさたか 一九四一年静岡県 浜北市生まれ。
五六年北浜中卒、ヤマハ 発動機入社。
青果仲介業などを経て、七 一年に浜松協同運送を設立。
九二年に現 社名の「ハマキョウレックス」に商号変 更した。
二〇〇三年三月に東証一部上場。
主要顧客はイトーヨーカ堂、平和堂、フ ァミリーマートなど。
流通の川下分野の 物流に強い。
大須賀氏は現在、静岡県ト ラック協会副会長、中堅トラック企業の 全国ネットワーク組織であるJTPロジ スティックスの社長も務めている。
ちな みにタイトルの「やらまいか」とは遠州 弁で「やってやろうぜ」という意味。
小石を握りしめてパンチすると衝 撃度が増すことを覚え、ケンカで は負けなくなった

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