ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2003年6号
やらまいか
地元トラック協会に殴り込み

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

JUNE 2003 74 緑ナンバーのどこが偉い 青果物の仲介業に見切りをつけて、トラック 運送業一本に絞ったのは正解だった。
荷主の開 拓も今度はうまくいった。
一〇代の頃は仕事を 断られるとすぐにカーッとなっていたが、二〇 歳を過ぎてすこし丸くなったのか、相手の話を きちんと聞くことができるようになった。
それ が営業面でプラスに働いたのだろう。
農作物や 建材など次々と受注に漕ぎ着けた。
スタートはトラック一台だったが、あっとい う間に一八台まで増えた。
もちろんトラックは 全て白ナンバー。
丸の中に大の文字を書き込ん だ(大須賀商店という意味)トラックを使って いたから、当時は「マルダイさん」なんて呼ば れていた。
儲かった。
実に儲かった。
白トラだ から余計に儲かった。
とてもいい時代だった。
しかし、一八台も使って白トラ営業やってい るとどうしても目立つんだね。
すぐにさされて しまった。
うちの商売をおもしろく思わない奴 がいたらしい。
静岡県のトラック協会に密告し やがった。
ある日、仕事から帰ってくると事務 所の机の上に「話があるからトラック協会まで 出向くように」というメモ書きと協会役員の名 刺が置いてあった。
協会の役員さんは「営業免許を申請しろ」と 言いにきたようだが、詳しい理由の説明もなく、 とにかく協会に来いという。
その態度が気にく わなかった。
それまでトラック協会とはまった くの無縁。
存在そのものを知らなかった。
それ でも顔を出すことにした。
当時、静岡のトラック協会は日本通運の浜 松支店内に事務所を構えていた。
事務所の中で は日通の社員たちが忙しそうに働いていた。
オ レは事務所の扉を開けた瞬間、わざと大声で怒 鳴りつけた。
「うちの会社に免許を申請しろと 言いにきたのは誰だ」――。
日通の社員たちが 一斉にオレの顔を見る。
ヤクザが乗り込んでき たんじゃないか。
そんな表情を浮かべていた。
慌ててトラック協会の役員が駆け寄ってきた。
頭にきたのは他でもない。
当時の営業免許の 仕組みがあまりにも理不尽だったからだ。
白ト ラ営業は違法だと言いながら、白トラ営業の経 験がない会社には免許を下ろさない。
明らかに矛盾している。
実績がなければ免許がとれない のだから、どんな会社もスタートは白トラ営業 だ。
それが免許を取得した途端に偉そうな態度 をとり、後発組に対して免許を申請しろなどと 文句を言い出す。
仮に免許を申請しても、許可が下りるまで二、 三年は掛かる。
免許を待って仕事を休んでしま えば、あっという間に会社は潰れてしまう。
自 分の家族、そして社員たちをどうやって喰わせ ていけばいいんだ。
協会やお役所は運送屋のこ となんて何ひとつ考えていない。
どうにも気に くわなかった。
だから事務所に乗り込んだ時、「借金だらけ 第3回「 地 元 ト ラ ッ ク 協 会 に 殴 り 込 み 」 白トラ営業のまま、保有トラック台数は一八台まで増えた。
そこに同 業者からの横ヤリが入り、地元のトラック協会に呼び出された。
すった もんだの末、緑ナンバーを取得。
会社がようやく軌道に乗り始めた。
そ う思った途端、またも売り上げの半分を占める大口荷主の倒産に直面し た。
借金返済のために「一日一〇〇〇円」の極貧生活が始まった。
大須賀正孝ハマキョウレックス社長 ――ハマキョウ流・運送屋繁盛記 《前回までのあらすじ》中学卒業後に入社したメーカー を半年で退社。
バターピーナッツの販売で糊口を凌ぎ ながらプロボクサーを目指した。
母親の反対でボクサ ーの夢を断念し、ダンプの運転手に。
その後、白トラ 運送業に転じたが、荷主開拓がうまくいかずに青果物 の仲介業に乗り出した。
しかし取引先の問屋が倒産。
再 びトラック運送業を開始した。
75 JUNE 2003 になって会社が倒産したら、お前たちを一生恨 み続けてやるからな」ってトラック協会の役員 を脅してやった。
顔を真っ赤にして捲し立てた から、相手も本気だと感じたんだろうな。
反論 するどころか、その後は親身になって色々と相 談に乗ってくれるようになった。
不思議なもん だ。
ちょうどその頃、地元に休眠中のトラック運 送会社があった。
その会社は倒産してしまい、 借金の肩代わりにトラックをすべて引き上げら れてしまっていた。
しかし営業権、つまりトラ ック運送業の免許だけは残っていた。
トラック 協会や運輸局の人たちはこの会社を買収するか たちで免許を取得してはどうか、とアドバイス してくれた。
その話を持ちかけられた時、「な るほどその手があったか。
頭のいい人たちは考 えることが違うな」と妙に感心した記憶がある。
結局、その言葉に従って休眠会社を買収し、 緑ナンバーを取得することになった。
白トラ営 業時代のお咎めは「トラック二台を対象とした 営業停止二週間」のみ。
残りの一六台は通常 通り動かすことができた。
処分後、晴れてトラ ック一八台、すべて緑ナンバーでトラック運送 業の再スタートをきった。
メーン荷主の倒産で窮地に 白ナンバーであろうと緑ナンバーであろうと、 モノを運ぶという行為そのものは何ら変わらな い。
大して影響はないだろう。
そう踏んでいた が、白と緑とでは大違いだった。
緑ナンバーの ほうが断然、営業がしやすい。
荷主企業は監督 官庁のお墨付きである緑ナンバーだと安心して 仕事を任せてくれた。
お陰で仕事が次から次へ と舞い込んだ。
しかし、そんな状況も長くは続かなかった。
一九七三年のオイルショックを境に流れがガラ リと変わった。
翌七四年に売り上げの半分を占 める名古屋の大口取引先が何の前触れもなく突 然倒産した。
その結果、ものすごい金額の借金 を抱える羽目になった。
ちょうど営業所を新築 して銀行から融資を受けたばかり。
それに不良 債権が加わったもんだから、会社はたちまち火 の車さ。
一瞬にして目の前が真っ暗になった。
債権者集会での出来事は今でも決して忘れな い。
倒産に追い込まれた取引先の社長さん、会 の冒頭でいきなり「煮るなり焼くなり好きなよ うにしてくれ」と言い出して完全に開き直りや がった。
払うべきものを払わないくせに相変わ らずの偉そうな態度。
この時ばかりは本当に頭 にきた。
「上等じゃねえか。
そこに寝ろ。
焼いてやろ うじゃないか」――。
そういって無意識のうち に身を乗り出して社長のほうに向かっていた。
慌てて周りの債権者たちが止めに入る。
お陰で 事なきを得たが、あの時は本当にキレていたか ら何をするか分からなかった。
お袋に泣きつか れて以来、封印していた右ストレートを数年ぶ りに炸裂させて、半殺しにしていたかもしれな い。
それにしても倒産というのはあまりにも無責 任だ。
一生懸命仕事をこなしてきたというのに 「申し訳ございません」の一言で全てをチャラ にしろ、っていうわけだから。
相手のことなん て何にも考えていない。
自分勝手すぎる。
努力 して何とか負債を返していこうという姿勢すら 見せない。
人間失格だ。
だからこそ自分は何があっても絶対に会社を 潰しちゃいけないと思った。
社員にきちんと給 料を払う。
下請けとして頑張ってくれた業者に も滞りなく運賃を支払う。
銀行には借金を返す。
自分の尻は自分で拭く。
どんなことがあっても 投げ出しはダメだと自分に言い聞かせた。
どうしても支払いの遅れてしまうことがあっ たとして、一生懸命働いて返そうと努力してい る姿を見せれば、相手はちゃんと理解してくれ る。
そういう信念みたいなものがあった。
だか ら全力を注いで仕事に取り組むことにした。
半 端は許されない。
日本で一番働くトラック業者 になろうと心に決めた。
まず最初にタイヤや油を売ってくれていた業 者に頭を下げにいった。
支払いを少しだけ先延 ばししてもらうためだ。
倒産を喰らってしまい、 今は代金を支払うことができない。
しかし、必 ず全額返済することを約束した。
事情を説明し た後に何とか待ってやると言われた時は、本当 に涙が出るほど嬉しかった。
しかし口で説明するだけでは信用してもらえ ない。
態度で示さなければ、相手は納得しない だろうし、自分の気も済まない。
そこでまず自 分の月給を一気に一五万円まで下げた。
一五 JUNE 2003 76 万円というのは社員の中で一番低い金額だ。
オ レの責任で不良債権を掴まされたわけで、社員 は一切関係ない。
だから社員たちの給料にはま ったく手を付けなかった。
借りた金は何としてでも返さなければならな い。
その気持ちは人一倍強かった。
そのため、 いざという時のことを考えて生命保険に加入 することにした。
突然死んでしまった場合でも 周囲に迷惑を掛けたくない。
だから保険金で 借金をすべて返済できるよう手配しておいた。
もちろん自殺した時に入ってくる保険金で借 金をチャラにするといった姑息な手段を考えて いたわけではない。
あくまでも万が一の時のた めだ。
その後はほとんど寝ないで働き続けた。
朝か ら晩まで働くという言葉があるが、それを通り 越して朝から朝まで働いた。
ボクシングで鍛え た体力には自信があった。
それでも睡魔だけに は勝てない。
半分眠った状態でトラックのハン ドルを握っていたことも少なくなかった。
そん な状況でよく事故を起こさなかったものだ。
今 振り返ると恐ろしくなる。
眠気が解消できない時には五分間だけ仮眠を 取るようにした。
たった五分でも熟睡すれば疲 れは取れる。
頭もスッキリする。
ちょっと危険 を伴うけど、受験生には持ってこいの仮眠方法 なので簡単に紹介しておこうか。
まず両切りのタバコを用意する。
その両端に 火をつけて、人差し指と中指の間に挟む。
そし て眠る。
だいたい五分くらいすると指が熱くな ってきて自然と目が覚める。
タイミングを逃す と火傷するけれど、寝過ごしてしまうことはま ずない。
とにかく熱いんだから。
おっと、受験生にはちょっと無理か。
タバコ が吸える年齢になっていないな。
まあとにかく オレはそんなやり方で睡魔と戦ってきた。
「一日一〇〇〇円生活」の知恵 思い切って給料を一五万円にまで下げたこと で、とたんに生活が苦しくなった。
当時住んで いた借家の家賃は月に四万五〇〇〇円。
電気 代や水道代、そのほかに色々と出費があって手 元に残るのは三万円だけ。
女房と小学生の子供 が二人の四人家族。
それで毎日の食事や子供た ちの洋服などを賄うしかない。
女房は「これだけではとても生活なんてでき ない」と容赦なくオレを責める。
しかし、無い 袖は振れない。
それでやっていくしかない。
離 婚するか、それともやるだけやってみるか。
ど ちらか選べと女房に迫ると、渋々ながら後者を 選んでくれた。
知恵も使った。
最初に女房に頼んだのは給料 日に銀行で三万円をすべて一〇〇〇円札に両 替してもらうことだった。
そして一日に一〇〇 〇円札一枚だけを財布の中に入れる。
要するに、 一日に一〇〇〇円で生活を切り盛りしてもらお うと考えた。
これを毎日繰り返すと、一カ月で ちょうど三万円になる。
財布の中に一〇〇〇円 札が一枚しかなければ、それ以上高いモノは購 入できない。
子供に八〇〇円のシャツを買ってしまえば、 おかずは残りの二〇〇円分だけ。
二〇〇円で四 人分だから一人当たり五〇円という計算だ。
コ ロッケ一つか納豆一パックずつといった程度に しかならない。
おかずがあれば、その日はまだ ましなほうで、ご飯とみそ汁だけという日も少 なくなかった。
例えば、おかずを五〇〇円分買って、そのほ かには何も出費がなければ、余った五〇〇円は 貯金箱に入れるようにした。
そうすることで少 しずつ小銭を貯めていった。
そして、月末にな ったら貯金箱を開いて、貯まったお金を持って 家族みんなで外食に出掛ける。
月に一回の外食 が当時は何よりも楽しみだった。
外食といって もうなぎ屋なんてとても無理。
どう節約を頑張 ってもラーメン屋くらいしか行けない。
それで もとても幸せだった。
この「一日一〇〇〇円生活」はしばらく続い た。
その間、自分の給料を減らして浮いた分の お金はすべて借金の返済に充てた。
それによっ て少しずつだけど借金は減っていった。
一時は どうなることかと不安で仕方なかったが、ある 程度借金返済のメドが立ってきたので給料を三 〇万円にまで戻すことにした。
大口の取引先が 倒産してから九カ月が経った頃だった。
しかし、二倍に増えたとはいえ、三〇万円で はとても贅沢な暮らしなんてできない。
当時は 現在よりも物価が高かった。
子供の学校の給食 費を毎月払っていくのだって一苦労。
その後、 すべての借金の返済が終わるまでの七年間は三 77 JUNE 2003 〇万円のままだった。
約九カ月間に及んだ一日一〇〇〇円生活の 経験から学んだのは「コストというのはやり方 次第でいくらでも抑えられる」ということだ。
それがこの連載の後半で説明する「物流センタ ーでのコスト削減ノウハウ」の原点にもなって いる。
始めから支出の額を決めてしまえば、無駄な ものは買わなくなる。
コスト削減もまったく同 じだ。
予算が潤沢だとその範囲でやろうとする。
現場の作業も終了時間が設定されていないと、 ダラダラとやるようになる。
しかし、予算、時 間ともに事前に目標のようなものを決めておけ ば、人間は何とかやり繰りできてしまうものだ。
例えば、一億円の売り上げで一〇〇万円の 利益が出るとしよう。
利益を三〇〇万円に伸ば すためにはどうすればいいか。
単純に考えれば、 売り上げを三億円にすればいい。
しかし、売り 上げを三倍にするのは容易なことではない。
肉 体的にもしんどい。
これに対して、支出を減らすことができれば、 極端に言えば売り上げを一円も増やさなくても 三〇〇万円の利益を確保することだって可能だ。
支出を減らすのはそれほどたいへんなことでは ない。
頭を使えばいい。
アイデア一つでコスト はいくらでも減らすことができる。
夜討ち朝駆け営業 当時はトラックのハンドルを握りながら、営 業活動にも精を出した。
なにしろ売り上げの半 分を占める取引先を失ってしまったわけだから、 穴埋めのための営業も必死だった。
まず最初に ターゲットに据えたのは地元の農協。
しかし、 この農協には既に出入りのトラック業者があり、 何度出向いても相手にされない。
「もう来るな」とまで言われたが、それでも通 い続けた。
朝夕、玄関前に立って担当者が歩い てくるのをひたすら待ち続ける。
これを毎日繰 り返した。
新聞記者が大物政治家や財界人な どにやる「夜討ち朝駆け」ってやつだ。
それで も農協のおっさんはなかなか折れない。
とても 手強い相手だった。
オレにも意地がある。
口説き落とすまでは足 繁く通ってやる。
そう意気込んで「夜討ち朝駆 け」を続けていた。
しかし、親戚の葬式があっ てどうしてもサボらなければならない日があっ た。
悔しかったが、仕方がない。
仕事があるか らといって葬式を欠席するというのは如何なも のか。
随分と迷ったが、一日だけ?農協詣〞を 休むことにした。
次の日、再び農協に出向くと驚いたことに担 当者が声を掛けてくれるようになった。
第一声 は「昨日はどうしちゃったの?」。
毎日玄関に 立っているはずの男が急に姿を消したもんだか ら、思い詰めて自殺でもしたんじゃないかって 心配になったみたい。
人間というのは本当に不 思議な生き物だ。
これがきっかけとなって、農協は徐々にスポ ットの仕事をくれるようになった。
月一回だっ た仕事が週一回に。
そして毎日へ。
段々と仕事 量も増やしていってくれた。
オレのことを信じ て、仕事をくれるようになったんだ。
期待に応 えようと一生懸命働いた。
この時私が学んだのは「断り続けることは疲 れる。
足繁く通えば、相手はそのうち無理矢理 でも仕事を作ってくれるようになる」というこ とだった。
営業とはお客さんに断られるのが仕 事だ。
断りにくい状況や関係になるまで何度で も足を運ぶ。
そのくらいの根性がなければ仕事 なんてもらえない。
今でもその姿勢は忘れてい ない。
社員たちにも実践させている。
こうして荷主の穴埋めにも成功。
生活費の切 り詰めも順調に進み、ホッと一息ついたのも束 の間だった。
大きな借金の元金返済期日が迫っ てきた。
しかし手元に現金はほとんどない。
銀 行につなぎ融資を頼んでも、担保がなければ話 にならないとまったく相手にされない。
そんな 時だった。
一生忘れることのできない救世主が 目の前に現れた。
(以下、次号に続く) おおすか・まさたか 一九四一年静岡県 浜北市生まれ。
五六年北浜中卒、ヤマハ 発動機入社。
青果仲介業などを経て、七 一年に浜松協同運送を設立。
九二年に現 社名の「ハマキョウレックス」に商号変 更した。
二〇〇三年三月に東証一部上場。
主要顧客はイトーヨーカー堂、平和堂、 ファミリーマートなど。
流通の川下分野 の物流に強い。
大須賀氏は現在、静岡県 トラック協会副会長、中堅トラック企業 の全国ネットワーク組織であるJTPロ ジスティックスの社長も務めている。
ち なみにタイトルの「やらまいか」とは遠 州弁で「やってやろうぜ」という意味。

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