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SEPTEMBER 2003 26
好業績の陰で?消えた共配の夢〞
当社は昨年度、名古屋証券取引所の銘柄としては、
年間の株価伸び率が一番だったそうです。 二〇〇二
年四月には五〇〇円前後だった株価が一年後には九
〇〇円台まで上がりました。 今期に入っても上昇して
います。 八月二一日現在で一三五〇円です。 足下の
業績が好調であることに加え、当社の「物流情報サー
ビス事業」の成長性を、とくに機関投資家を中心に
高く評価いただいているようです。
物流情報サービス事業というのは、ご存知のように
業界で?水屋稼業〞として知られてきた、車両情報
と荷物情報をマッチングする配車ビジネスです。 当社
では従来からそれを組織的に手掛けてきましたが、昨
年二月に新しい仕組みができたことで、事業の急拡大
が可能になりました(本誌二〇〇三年四月号二六頁
参照)。
実際、二〇〇二年三月期に七一億円だった物流情
報サービス事業の売上高が、二〇〇三年三月期には
一〇〇億円を超えました。 今期は一四〇億円を予想
しています。 それでも当社が一日に配車している車両
台数は八〇〇台から一〇〇〇台程度です。 日本の営
業用トラックが一一〇万台だとすると〇・一%にも満
たない。 事業の成長余地ははかり知れません。
同時に3PL事業も伸びています。 当社では「ロジ
スティクス・マネジメント事業」と呼んでいますが、
これも今期は前年比三四%増の約七七億円を予想し
ています。 この二つの事業が現在は当社の二本柱です。
二本柱の事業拡大によって前期の連結売上高二四〇
億円に対し、今期は三〇〇億円超を達成するつもり
です。
その一方で、かつて当社の看板事業だった「家電
小型トラック中心の地場配送業から、家電の共同配送ベン
チャーに転身。 全主要メーカーが参加する共配ネットワークを
実現し、95年には株式公開を果たした。 ところが、その後の量
販店主導の物流再編がメーカー共配を直撃。 2003年3月期には
事実上、家電共配事業は終息した。
武部宏トランコム社長
共配事業」は、二〇〇三年三月期で実質的になくな
りました。 私にとっては大変、ショッキングな出来事
でした。 昨年度、当社は大幅な増収増益かつ二年連
続で過去最高益を更新したのですが、こと家電共配
に関して言えば大打撃を受けた年でした。 下期だけで
五億円の売り上げと二億円を超える利益を失いまし
た。 通期に換算すれば、その倍の影響ということにな
ります。
家電量販店がそろって専用物流センターの設置に
動いたことがその原因です。 家電量販店業界では従来
からヤマダ電機さんが第一貨物さんに委託する形で専
用センターを運営してきましたが、それが昨年度、地
元東海地区の他の量販店にも一気に広まった。 量販
店のセンターへの納品は通常、メーカーの販社経由で
はなく工場直送です。 メーカー販社を直接の荷主とし
てきた当社の家電共配はそれによって全く成り立たな
くなってしまった。
もちろん当社も黙って指をくわえて見ていたわけで
はありません。 量販店の専用センターのコンペにも参
加しました。 しかし、落札したのはどこも家電メーカ
ー系の物流子会社でした。 当社がギリギリで出したレ
ベルを大幅に下回る値段での落札でした。 どう考えて
も当社では採算が合わない。
これは推測に過ぎませんが、物流子会社の出した値
段は純粋な物流事業としての意味合いの他に、メーカ
ーとしての営業戦略上の意図があるのかも知れません。
いずれにせよ家電量販店の専用センターは、もはや当
社のような独立系運送会社が参入できる市場ではない
と判断するしかありませんでした。
これに先だって当社は二〇〇〇年一月に経営政策
の大転換を行なっています。 共配から物流情報サービ
スやロジスティクス・マネジメントに事業の軸足を移
特集2 失敗に学んだ物流
部分最適の限界を思い知る
Keyword 共同配送
27 SEPTEMBER 2003
したわけです。 もし、そうしていなかったらと思うと
背筋が寒くなります。 少なくとも現在のような業績や
株価ではあり得ませんでした。 倒産していても全く不
思議ではなかった。
実は経営政策の大転換は私の発想ではありませんで
した。 当社の役員たちが提案し、一年間かけて渋る私
を説得したというのが本当のところです。 私の頭には
九五年に株式を公開した時の「共同配送のトランコ
ム」というキャッチフレーズがこびりついていました。
共同配送で日本一になるという夢を捨てることには、
どうしても抵抗があった。
しかし今になって振り返ると、残念ながら当社の共
配事業は部分最適の提供でしかなかったと思います。
エリア的には東海地区に限定されている。 しかもメー
カー販社から小売店までの配送という、サプライチェ
ーンの末端の部分だけしか見ていなかった。 そのため
に、工場から販社を飛ばして量販店に直送する形のサ
プライチェーンが出てきた時、それに対応できなかっ
た。
家電の前に、当社は菓子の共配からも撤退していま
す。 容積がかさむ菓子は共配といっても、数社の荷物
で車両が満載になってしまいます。 家電のように荷扱
いが難しいわけでもない。 そのため値段の叩き合いに
なり、利益の出ないビジネスになってしまった。 誰に
でもできる物流だった。 付加価値がなかったのです。
家電共配はそれとは違います。 誰にもできなかった。
それを当社がクリアしたから、全ての家電メーカーが
利用した。 しかし、それも荷主にとってメーンの配送
手段ではありませんでした。 メーカー販社にとっては
自社便に乗せると割りの合わない荷物の配送に当社を
利用するだけにとどまっていました。
もちろん今でも共同配送自体は十分に魅力のあるテ
●トランコム連結事業別売上高推移
※2004年度3月期の数値は同社予想
(百万円)
運輸事業
ロジスティクス・マネジメント事業
共同配送事業
貸切輸送事業
時間制輸送
専門輸送
一般輸送
家電共同配送
エリア別共同配送
01/3
11,854
2,793
901
1,892
3,380
1,854
470
1,055
5,679
02/3
13,230
2,776
837
1,938
3,300
1,818
426
1,056
7,153
4,658
2,819
1,839
03/3
16,616
2,967
2,967
3,571
2,361
1,210
10,077
5,734
3,434
2,299
04/3
20,505
2,726
2,726
3,690
2,441
1,249
14,089
物流情報サービス事業
商品管理事業
物流センター事業
自動車整備事業
アウトソーシング事業
セグメント取引消去
合 計
3,272
2,083
1,188
792
919
−867
15,970
839
825
−761
18,793
911
1,421
783
23,899
995
1,992
816
30,320
7,684
3,338
4,346
― ―
― ―
ーマです。 実際、商品別ではなく、当社でいう「エリ
ア別共配事業」は今でも十分にビジネスとして成り立
っています。 今後も拡大が期待できる。 しかし商品別
共配による末端配送の部分的な最適化は、もはや通
用しなくなりました。 部分ではなく、荷主の物流の全
てを、改めて共同化をベースに設計するというアプロ
ーチが必要でしょう。
二〇代で倒産を経験
トランコムの前身は、昭和三〇年に私の父がトラッ
ク八台で始めた愛知小型運輸という地場の運送屋で
す。 私はその二代目として会社を引き継ぎ、共配ベン
チャーへの転身を図りましたが、それでも運送業とい
う枠内の商売であることには違いなかった。 しかし情
報サービス事業や、センター業務中心のロジスティク
ス事業をメーンとする現在の当社は、もはや運送業と
は言えません。 私が経営の転換に反発したのは、運送
屋の二代目としてのこだわりのようなものもあったのかも知れません。
物心付いた頃から、私は家業の運送屋を継ぐことを
当然のことのように考えていました。 実際、学校を卒
業すると他人の釜の飯で修業することもなく、そのま
ま家業に入りました。 遊んでばかりで、ほとんど真面
目に仕事することのない典型的なドラ息子でした。 既
にその頃には会社もそれなりの規模になっていて、私
一人遊ばせておくぐらいの余裕はあったのです。
そんな私が、二七歳の時に愛知小型運輸の子会社
という形で、新規事業に乗り出したことがあります。
電化製品を納品し、そこで据え付け工事まで全てやっ
てしまうというアイデアでした。 それまでのように単
にモノを運ぶだけでなく、輸送サービスに技術をプラ
スすることで、付加価値を高めようという狙いでした。
物流情報サービス事業のオフィス。
もはや運送会社には見えない。
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その会社はわずか一年で百数十台の車両とドライバ
ーを抱えるほどに成長しました。 店舗も名古屋、浜松、
岡崎、三重、金沢など六カ所に展開しました。 しかし、
二年目に突然、どん底に突き落とされました。 最大荷
主の事業撤退に直面したのです。 手の打ちようがあり
ませんでした。 事実上の倒産でした。
全ての店舗を閉鎖して、残った従業員や車両は全
て親会社の愛知小型運輸が引き取ることになりました。
親が二代目の尻ぬぐいをしたわけです。 父はもちろん、
何より愛知小型運輸の役員や社員に会わせる顔があ
りませんした。 汚名を返上するには、仕事で実績を上
げるしかありません。 私が本当に仕事に打ち込むよう
になったのはそれからです。 同時にこの時の失敗によ
って、私は会社というものが、どれだけ簡単に倒産す
るのかということを、身を持って知りました。
社長の器で会社は決まる
愛知小型運輸に戻って、改めて会社の置かれた環
境を考えたとき、この会社はそれほど長くない。 いつ
倒産してもおかしくないように思いました。 あまりに
も荷主に従属的だったからです。 現在でも全国五万数
千社・一一〇万台とも言われる営業用トラックのほと
んどが、同じ状態にあると思います。
同様に当時の愛知小型運輸も運送業というより「ド
ライバー付きトラックリース業」を営んでいるに過ぎ
ませんでした。 全く付加価値がない。 いつでも換えが
効くので荷主とは従属的な関係にならざるを得ない。
しかも値段だけの勝負です。 その頃には当社も地元で
は中堅以上の規模になっていました。 しかし、やって
いることは一〇台持ちの小規模運送会社と全く変わ
らない。 運送業も従業員一〇〇人以上の規模ともな
ると、社長や役員、事務職などの管理費がどうしても
発生します。 社長が配車係を兼ね、時にはハンドルを
握り、嫁さんが経理という小規模業者と単価を争った
ら絶対に勝てない。 何か付加価値がないと生き残れな
いのは明らかに思えました。
それを必死で考えた結果が共同配送でした。 山ごも
りまでして共配を軸とした事業計画を一気に書き上げ
ました。 そして、それを会社で発表しました。 その結
果、社員からは「理想主義者」というレッテルを貼ら
れてしまいました。 親父は気が狂ったかと逆に怒り出
す始末。 誰も将来、当社が共配で株式を公開するこ
とになるなど考えてもいませんでした。
それからずっとトランコムを日本一の共配会社にす
ることが私の夢でした。 それだけ共配にはこだわりが
あった。 それが今のような形になるとは全く予想して
いませんでした。 しかし共配が物流情報サービスに変
わっても、当社を日本一の会社にする夢だけは今も持
ち続けています。 しかも根が楽観的なのでしょう。 夢
は必ず実現すると私は常に信じています。 私には運送業界のことしか分かりませんが、会社の
勝ち組・負け組を左右するのは、トップにはっきりと
した夢があるか。 さらには、それが数値目標を持った
事業計画に落とし込まれて、社員に共有されているか
どうかが大きいように思います。 ヤマト運輸やハマキ
ョウレックスなど、その典型でしょう。 逆に負け組の
会社は経営者の夢が見えない。
会社は社長の器以上のものにはならない。 会社は社
長の器で決まるということは、私も十分承知していま
す。 そのためにも早く後継者を育てることが今の私に
とっての大きな使命になっています。 もはや当社は運
送業ではありません。 そう考えると今の当社には根っ
からの運送屋の私よりも新しい時代に相応しい社長が
必要になっているのだと考えています。
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