ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2002年4号
ビジネス戦記
物流企業の限界

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EXEテクノロジーズ 津村謙一 社長 APRIL 2002 58 プロローグ 米国3PL市場へ 一九七一年に、私は鈴与に入社した。
配 属先は船舶部だった。
そこで私は日本郵船 をはじめ多くの船会社の代理店業務やNV OCC(非船舶運航業)業務を経験するこ とになった。
当時の鈴与の社風は、端的に 表現すればバンカラで、先輩諸兄には逸材 が多かった。
彼らに国際海運物流を徹底的 に仕込まれた。
その後、七九年に米国西海岸へ赴任した。
鈴与の現地法人を設立することが目的だっ た。
一年余りのマーケットリサーチの末、 八〇年にロサンゼルスに鈴与アメリカを設 立した。
それが米国の物流市場に身を投ず るきっかけとなった。
当時、米国の物流市場は規制緩和に伴う 混乱の最中にあった。
米国政府は七八年に 物流規制緩和法を制定し、それまで事業許 可や認可料金などによって保護してきた物 流事業の自由化を進めた。
これによって大 量の新規参入が起こり、市場ではダンピン グが激化。
老舗の物流企業の倒産が相次い だ。
鈴与アメリカでダイエー、本田技研工業 の海外業務、倉庫業務を開始した後、私は 八四年にシカゴに移り、KRI社(現在の 興国インテック USA社)の社長に就任 した。
KRI社ではGM社、コンパック社、 ベクトン・ディッキンソン社、USA X EROX社等がビジネスの相手だった。
期 せずして、サプライチェーン・マネジメン ト(SCM)の創世記と3PL(Third Party Logistics )産業の台頭を身近に体験 することになった。
さらに九二年からは富 士ロジテックの海外オペレーション担当役 員として、デルコンピュータ、GAP、マ イクロン社といった先進企業の3PLプロ ジェクトを手がけた。
物流マンとしての過去二〇年余りのキャ リアを通じて私は、従来型の物流企業が3 PLに脱皮することの難しさを身を以て学 んだ。
一方、ユーザー側にも多くの課題が あることを知った。
実際、3PL企業の選 択は容易ではない。
誤った起用によって多 くの流通系企業が戦線から消えて行った。
そして3PLと並ぶ、もう一つのビジネ スのカギがITだった。
この連載では、い わゆる「IT革命」とそれに伴うSCE ( Supply Chain Execution: サプライチェー ン実行系システム)が、いかに企業経営に 対して強烈なインパクトを与えたのか。
ま た、時代の変化に乗り遅れた企業がどのよ うに消滅していったのかをできるだけ詳細 に語っていきたいと思う。
【第1回】 物流企業の限界 米国の物流市場は日本よりも一〇年早く動いている。
七 〇年代末から八〇年代初頭にかけての規制緩和。
その後の 市場の混乱。
そして九〇年頃から始まった3PL企業の台 頭――。
一連の米国市場の動きを、筆者は日本の物流会社 の現地駐在員として渡米し、直接体験することになった。
本連載では3PLという新業態について筆者が理解してい った道筋を振り返り、日本の物流市場の今後を占う。
新連載 59 APRIL 2002 二極分化する物流市場 日本の物流産業は現在、二極分化しつつ あるといわれる。
ごく少数の大手企業と数 多くの中小零細企業との二重構造が形成さ れつつあるという指摘である。
これはユー ザー側がサプライチェーン戦略の一環とし て、グローバルベースの3PL企業を起用 する場合は大手指向になり、あくまでもコ スト重視で徹底的に物流量の削減を目指す 場合は、中小零細物流企業を採用する傾向 が強いことに起因している。
前者の場合は情報投資を伴う。
これに対 して、後者の場合は情報投資をしたくとも、 原資の捻出がはなはだ困難なケースが多い。
たとえ原資の確保がなされても、従業員教 育、システム導入に伴うオペレーション改 革、システムメンテナンス等の課題が多く、 情報投資には躊躇せざるを得ない。
結局、 他社に負けないコスト競争力のみを追求す ることになる。
こうしたユーザー企業のニーズに対応し て、物流産業は情報システム主導型の3P Lと、労働集約型ローコスト・オペレーシ ョンの二層に分かれてきた。
現状では圧倒 的多数のユーザー企業が後者、コスト第一 主義である。
しかし、これからは徐々に前 者が増加してくるはずだ。
このような日本の物流産業の現況は、米 国の3PL市場の創成期に当たる九〇年代 初頭と酷似している。
日本でも今後、米国 と同様の物流産業の自由化が進むのは必至 だ。
物流企業はこれまでとは比較にならな いほど凄惨な競争にさらされることになる。
米国3PL市場の黎明期とそれを取り巻く 流通、製造業を検証することは、日本の物流企業にとって重要な意味を持つと思われ る。
物流企業の限界 富士ロジテックアメリカ 一九九二年、私は南カリフォルニア州に いた。
当時の米国は八〇年代から続く長期 不況から回復しておらず、カリフォルニア 州の不動産市場も下落の一途をたどってい た。
一般住宅は八〇年代のピーク時と比べ て三〇〜四〇%下落していた。
生活苦に喘 ぐ人々は住宅の売却もままならずローン返 済が滞り、マイホームを喪失するケースが 続出した。
例え数カ月の滞りでも米国の銀 行は容赦しなかった。
配送センター、倉庫、事務所ビルなどの リース料も低下していた。
カリフォルニア 州郊外の配送センターや倉庫のほとんどは 造成業者が投機用に建設したスペックビル だったが、九〇年代初頭にはそれらの三 〇%以上が借り手の無い状況であった。
そのため比較的治安の良いエリアの三年 契約の賃借料が、一〇万平方フィート(二 八〇〇坪)の倉庫で月に二万五〇〇〇ドル 程度(当時の為替で約二八〇万円)。
治安 に問題のある地域では月一万五〇〇〇ドル (約一六五万円)前後で借りることができ た。
日本と異なり高額の礼金、敷金を支払 う習慣もない。
一方、トラック運送について、米国では トラックを自ら保有する個人事業主のドラ イバーが数多く存在している。
「オーナー オペレーター」と呼ばれる。
間接費負担が ないため運賃を低く抑えることができる。
こうしたオーナーオペレーターと契約を結 んで実務を任せ、後は荷主を獲得する営業 力さえあれば、資産を持たないノンアセッ トのトラック運送会社を設立することがで きた。
実際、七八年の物流規制緩和法による参 入自由化以降、米国では数多くの物流企業 が設立され、また数多くの企業が消えてい った。
当然、コスト競争力がある企業が生 き残ったわけであり、生き残るためにはそ れまでの限界を超えたコスト削減が必要で あった。
私が社長を務めた富士ロジテックアメリ カはロングビーチ市の北部に位置していた。
ロングビーチ港、そして隣接のロスアンゼ ルス港からいずれも約一〇キロメートルと いう距離にあった。
州の南北を結ぶ主要道 路、アラメダ・ストリートからエルプレシ ディオという枝道に入り、袋小路の一番奥 が富士ロジテックアメリカグループの本社 だった。
敷地面積約一万四〇〇〇坪、倉庫面積約 二五〇〇坪。
二階建て事務所棟が四〇〇坪 という規模だ。
設備としてはコンテナの積 み卸しを行うローディングドックが前面に APRIL 2002 60 四〇、北側に五。
建物の背後にはユニオン パシフィック鉄道の引き込み線が敷かれて おり、引き込み線に面して十二のローディ ングドックがあった。
配送センターとしては文句のつけようの ない最高の構造と機能を持っていた。
また 袋小路ということもあって、エルプレシデ ィオ通りの治安状況も、ロングビーチ北部 としては比較的良好だった。
値段の叩き合いが日常化 富士ロジテックアメリカは様々な企業の 配送センター業務を中心に、コンテナ・ト ラック輸送、フレイトフォワーダー(輸出 通関)、NVOCC、そして航空貨物等の 部門から成り立っていた。
小粒ながらも物 流の主要機能はひと通り持っていたのであ る。
設立は八〇年、日系物流企業としては 古い部類に入った。
親会社の富士ロジテックのオーナー社長、 鈴木威雄氏は進取の気象に富む経営者で、 日本で初めて営業倉庫にロボット(AGV) や自動倉庫を導入した人物としても知られ ている。
その鈴木社長の下、富士ロジテッ クは欧州のGOTH(当時の欧州の大手N VOCC)との提携を進めるなど、グロー バル化に対しても先進的な取り組みを行っ ていた。
米国においての事業展開も積極的だった。
しかしながら当時の米国市場の経営環境は 極めて厳しかった。
実際、日系の物流企業 で黒字経営というところはほとんどなく、 何らかの形での日本本社の人的あるいは資 金的援助を得て、かろうじて事業を存続し ているという企業が大半であった。
富士ロ ジテックアメリカもその例外ではなかった。
鈴木社長の積極路線で活路を見出そうにも、 あまりにも状況が悪過ぎた。
とりわけ日系物流企業にとって、米系の 顧客獲得は至難の業だった。
おのずと少数 の日系メーカー、商社の物流業務を取り合 うことになり、値段の叩き合いが日常茶飯 事となっていた。
ローコスト・オペレーシ ョンの追求は、常に経営の最優先課題であ った。
当時、ロングビーチ港のコンテナーター ミナルから約二〇キロメートル離れたカー ソン市、トーランス市まで、四〇フィート コンテナ一本を輸送する運賃は九〇〜一〇 〇ドルだった。
その約一〇年前、八〇年頃 の運賃が七〇〜八〇ドルだったことを考え ると、ほとんど上がっていない。
物価上昇 率を遙かに下回る水準だった。
配送センター内のハンドリングフィーも 同様だ。
八〇年の入出庫料で一才当たり各 八〜一〇セント。
一カ月の保管料が四〜五 セント/才であった。
これに対して九二年 の入出庫料は一二〜一四セント。
保管料は 六〜七セント。
日本では考えられない低料 率であった。
ただし、前に述べたように、不動産価格 の下落のために倉庫の賃借料は安かった。
現場スタッフの正社員の人件費も最低賃金 (時給四ドル二五セント/時間)を少々上 回る五〜五・五ドル程度であり、労災保険、 医療保険、一般管理費等を加えても時給一 〇ドル少々であった。
さらに派遣社員の場 合は、諸費用すべて込みで、時給七〜八ド ルだった。
運送事業から撤退 私が富士ロジテックアメリカの社長に就 任したのは正式には九二年八月だった。
私 に与えられた使命は同社の再建だった。
こ れには感慨深いものがあった。
というのも、 八〇年に設立され私が初代駐在として務め た鈴与アメリカこそ、富士ロジテックアメ リカの前身だったからだ。
私はそれまでのシカゴ時代(一九八四〜 一九九一)に様々な米国メーカーのSCM に接した経験から、できれば富士ロジテッ クアメリカを3PL企業として発展させたいという夢を持っていた。
それは鈴木威雄 社長の米国法人にかける情熱とも合致し、 全面的なサポートを約束していただいた。
しかしながら赴任して直ぐに、夢と現実 のギャップを嫌というほど思い知らされる ことになった。
富士ロジテックアメリカの 部門別の業務内容と収益性について詳細に 分析した結果、まずトラック・コンテナ輸 送部門が、どう策を練っても赤字体質から 転換できないと分かった。
輸送部門は港湾地区の朝のラッシュ時の 仕事が中心だった。
一台当りの売上げが低 く、ひどい時には一日二〇〇ドル程度の売 上げしかないこともあった。
これでは運転 61 APRIL 2002 手の人件費どころか、燃料も出ない。
高額 な保険、そして事務職、運行管理者等のコ ストを加えると、とてもやっていけないの は明らかだった。
結局、私が念頭に置いて いたプランに反して運送部門から撤退する ことになった。
一方、NVOCC業務と輸出通関部門は そこそこの利益をあげていた。
ただし、取 扱い貨物は日本向け自動車と、モーターサ イクル、および冷凍肉、野菜等が主体だっ た。
これもまた私が想定していた3PLの 対象となるような品目ではなかった。
最大の課題は配送センター業務であった。
二八〇〇坪のセンターは既に満杯状態であ った。
それでも利益が出ない。
業務の内容 は日系電機メーカー、シントム社の家電量 販店向け配送センター業務。
カリフォルニ ア州、ネバダ州、アリゾナ州、ハワイ州内 のベスト社の配送業センター業務。
ウォル マート社向けのキッチンウェアのセンター 業務等が主体であった。
これにモンフォー ト社の日本向け冷蔵肉の海上コンテナへの 積み換え作業もあった。
いずれも料金的に は厳しく、力作業主体のキツイ業務が多か った。
葬送行進曲 当時の富士ロジテックアメリカの月間総 売上は一〇万ドル程度。
これに対してWM S(Warehouse Management System: 倉 庫管理システム)、バーコードプリンター、 RFサーバー等のハードを導入すれば約三 〇万ドルの投資が必要だった。
システム導 入に対し、それなりの対価を認める荷主は 一社も無かった。
おまけに現場の作業員は メキシカンの派遣社員が中心で、大半は英語が通じないという有様だった。
3PL化 しようとも情報投資の原資はおろかメンテ ナンス要員の確保もままならない状態だっ た。
結局、情報武装による3PL化は断念せ ざるを得なかった。
その代替案として、オ ペレーションコストを徹底的に絞ることに なった。
事務所棟の二階をリースし、賃借 料を稼いだ。
お隣の三井倉庫にヤードを貸 し、コンテナの保管料をもらった。
現場スタッフは出来る限り派遣社員に切 り替えた。
その上で、一人一時間七ドル五 〇セントの出費を抑えるため、私を含めた 日本人スタッフが倉庫の中で冷蔵肉の積み 換えや検品、ピッキングを行った。
屋内、 屋外の清掃も社員。
切り詰めて、切り詰め て、全員必死だった。
今、振り返ると情け なくなる。
とりわけ今でも脳裏にこびりついて離れ ない出来事がある。
運送部門のトラックド ライバー、事務職、ディスパッチャー全員 を解雇した時のことだ。
少しでも賃借料を 稼ぐためにリースすることが決まった会議 室に一同を集め、全員に解雇を申し渡した。
十数年にわたって使い古した会議テーブ ルの部屋に私が座り、そこに全員が入室し てくる。
全員が歌を口ずさんでいる。
聞い たことのある歌だ。
葬送行進曲だった。
ア メリカらしいユーモアではあったが、すまな いという想いで言葉が出なかった。
こうして富士ロジテックアメリカの再建が 進んだ。
数カ月後には何とか利益が出るよう になった。
コア・コンピタンスに経営資源を 集中したといえば聞こえは良いが、実際には 単なる事業の選別による縮小均衡であった。
鈴木威雄社長の願った3PLとはまるで正反 対の方向だった。
それでも私の心の底にはホッとした気持ち があったことも事実だった。
この時、私はま だ自分の犯した重大な経営判断の誤りに気付 いていなかった。
そしてそのツケは後にじわ じわとボディブローのように効いてくること になった。
(次回に続く) PROFILE つむら・けんいち1946年、静 岡県生まれ。
71年、早稲田大学 政治経済学部卒。
同年、鈴与入 社。
79年、鈴与アメリカ副社長 就任。
フォワーディング業務、3 PL業務を展開。
84年、米シカ ゴにKRI社を設立し、社長に就任。
自動車ビック3、IBM、コンパッ クといった有力企業とのビジネ スを経験。
92年、富士ロジテッ クアメリカ社長に就任。
98年、 イーエックスイーテクノロジー ズの社長に就任。
現在に至る

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