ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2002年7号
ビジネス戦記
日本市場で3PLに再挑戦

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

JULY 2002 74 EXEテクノロジーズ 津村謙一 社長 米国市場における3PL展開は夢に終 わった。
しかし、3PLのチャンスは日本 市場にもあるはずだ。
折しも米国の有力 企業が相次いで日本に参入しようとして いた。
彼らをターゲットに、日本における 3PLビジネスの立ち上げに乗り出した。
とはいえ実績があるわけでもなく、社内に は3PLを理解している営業マンもいない。
全くゼロからのスタートだった。
業績不振に陥っていた富士ロジテックアメ リカを、3PLに転換させることで再建する ――そんな私の目論見は、はかなくも挫折し た。
結局、同社のオペレーションは旧来のコ スト指向型に徹する方向で進んでいった。
も ちろんこれは日本サイドの鈴木威雄(富士ロ ジテック)社長の意向に沿ったものではなか った。
当時から富士ロジテックはITシステム 子会社の富士システムハウスを傘下に抱え、 求貨求車システムの「アクション」を世に 先駆けて立ち上げるなど、先進的な経営で 知られていた。
同グループで販売するWM S(倉庫管理システム)パッケージ「スト ックマン」は、二〇〇社以上の物流企業や 流通企業に採用されていた。
会社の規模としては中堅ながら国際進出 にも積極的だった。
欧州の大手フレートフ ォワーダー、GOTH社との提携によって 国際ネットワークを構築。
九六年には米国 ネプチューン社(現在のEXEテクノロジ ーズ社)に出資し、シンガポールを拠点と して東南アジアでのロジステックシステム の販売を開始するなど、横並びの意識の強 い日本の物流業界にあって、際立って異色 な展開をしていた。
最も3PLに近い日本 の物流企業であったといえる。
それだけに米国法人の縮小均衡路線は鈴 木社長にとって到底納得のいくものではな かった。
しかし、それは社内の抵抗勢力と のバランス上やむを得ない決定でもあった。
米国がダメなら日本があるさ 米国の物流市場において一九八〇年の規 制緩和前後が3PL産業の第一ブームだっ たとすれば、九〇年代は第二次ブームであ ったといえる。
実際、この時期に数多くの 新興3PLが誕生し、またエアフレートフ ォワーダーが相次いで3PL市場に参入し た。
その背景となったのは米国製造業、流通 業における経営スリム化と本業への経営資 源の集中投資である。
荷主企業が本業回帰 を進めていくうえで、必然的にロジスティ クスはアウトソーシングされることになり、 その受け皿として3PLが台頭していった 【第4回】 日本市場で3PLに再挑戦 75 JULY 2002 のだ。
こうした環境変化は進取の気性に富んだ 富士ロジテックのような物流企業にとって 本来、格好のビジネスチャンスとなるはず だった。
と言うよりも、奢った言い方かも しれないが、私は3PLという新しい業態 を立ち上げることで、日本の物流そのもの を変えたいと半ば本気で考えていた。
常に?荷主上位〞という従来の物流市場 の世界から脱却し、荷主企業と物流業者と のイコールパートナーシップを前提にした 環境の下で、思いきりロジスティクスのあ り方を追求してみたかった。
規制としがら みだらけの日本の物流市場に新しい風を吹 き込みたいと考えていたのである。
米国市場において3PLを成功させるこ とはできなかった。
しかし米国が無理なら、 日本で再び3PLに挑戦しようということ になったのだ。
幸いにして富士ロジテック にはそうしたチャレンジを許す企業風土が あった。
富士ロジテックの国際オペレーシ ョン担当役員として、日本と米国を往復し ながら、私は新たに日本市場における3P L事業の具体的な立ち上げに動き出した。
もっとも、いきなり日本企業相手に3P Lをやりますと言っても、相手にすんなり 理解してもらえるとは思えなかった。
そこ で顧客ターゲットとして、まずは新しく日 本市場に進出する予定のある米国企業に狙 いを定めた。
さらに産業分野を流通業とハ イテクに絞り、具体的な顧客企業の洗い出 しを行った。
問題はその先にあった。
3PLを荷主に 売り込むことのできる営業が社内にいない。
外資系企業を相手にする以上、バイリンガ ルは絶対条件。
その上でロジスティクスとIT、それから流通業もしくはハイテク産 業の知識を持っているスタッフが必要であ った。
まったくゼロからのスタートであったが、 幸い鈴木威雄社長の母校、ミシガン大学は 毎年、日本に数名の交換留学生を送り込ん でいた。
また毎年十一月にはボストンで、 留学生を対象とした日本経済新聞社主催の 就職フェアが開催されるという情報もキャ ッチした。
そこでミシガン大学と連絡を取り、また ボストンの就職フェアにも出展し、若手を 募ることになった。
3PLは新しい挑戦で あるのだから、既存の物流業界人を改めて 教育するのではなく、過去の物流業の商慣 習やしがらみを全く知らない、まっさらの 若手で取り組んでみようと考えたのだ。
即席チームで営業を開始 こうしてミシガン大学からはアーノル ド・コンセンコ(現在・EXEテクノロジ ーズ社 日本の営業本部長)、スコット・ス モーリー(現在・SASアソシエイツ社長) が。
ボストンからはウェイ・ジュンチ(E XE台湾)、村山豪一(現在・港製薬営業 本部長)等が入社した。
いずれも、3PLについてはズブの素人 だった。
彼らに数週間のロジスティクスの 講義と特訓を行っただけで営業を開始した。
今から考えれば随分と無謀なチャレンジだ ったと思う。
具体的には流通とハイテクという営業タ ーゲットをさらに絞り込み、流通はスポー ツ用品とアパレル。
ハイテクはコンピュー ターに照準を合わせた。
どうせなら大手を 狙おうということで、アパレルはギャップ (GAP)とゲス(GUESS)。
コンピュ ーターはデル・コンピュータとアップル・ コンピュータの計四社を選んだ。
勢いで、 どうせならこれらの企業の社長と直接交渉 してみようということも決まった。
勝手に 選ばれた四社は、たまったものではなかっ たろう。
それでもギャップとゲスのトップには直 接、話を聞いてもらえた。
デル、アップル はさすがに断られたが、シニア・マネジメ ントとのパイプを持つことができた。
運が 良かった。
これらの四社が共に日本進出も しくは日本国内のロジスティクスの見直し を検討中であったことが幸いしたようだ。
我々の3PLチームは、まずアーノルド がギャップを担当。
村山がデルの窓口とし てロサンゼルスに常駐。
スコットとウェ イ・ジュンチは東京丸の内の日本郵船ビル にある富士ロジテックのオフィスに勤務す ることになった。
ちなみに当時、スコット は毎日ハーレーダビッドソンの大型モータ ーサイクルで丸の内まで通勤していた。
端 から見れば不良外人の典型だった。
JULY 2002 76 デルとギャップを受注 初めに受注が決まったのは、デルであっ た。
営業活動を開始し、三カ月目のことだ った。
担当の村山は極めて粘り強い男で、 営業もシツコイことこの上ない。
その甲斐 あって、テキサス州オースチンにあるデル 本社のロジスティクス・マネージャーのマ イケル・グレース氏、グレッグ・ネルソン 氏の両名にしっかりと食い込んだだけでな く、短期間で相当な人脈を作り上げていた。
デルへのプレゼンテーションでは、IT 機能を前面に出し、また提示したコストに ついては、いかに妥当な正しいコスト分析 手法に基づいているかを強調した。
当時、デルはマレーシアのペナンに工場 を建設中であり、日本市場対応はアイルラ ンド工場が受け持っていた。
日本・アイル ランドは常に片荷状態で、アイルランドか ら日本向けのエアスペースをいかに安定し て確保するかが最大の課題であった。
これ に対して我が3PLチームは、近鉄エクス プレス、BAXグローバル、日本通運等の 協力を仰ぎ、何とかスペース確保のめどを つけ、提案をまとめることができた。
受注確定後、日本に帰国。
鈴木威雄社長 と共にデル・ジャパンの新社長となった吹 野博志(現会長)さんと昼食を共にした。
デルにとってロジスティクス、SCMがい かに重要であるか、吹野さんは熱っぽく語 られていた。
今だから白状するが、その時 には私どもにとって実はデルは始めての3 PLのお客様ですと切り出すことはできな かった。
恐らくこの文章をご覧になればび っくりなさるに違いない。
ちなみに、この 時の縁でデルの創業者のマイケル・デル氏 は現在、EXEテクノロジーズの大株主の 一人となっている。
デルの受注後、今度はアーノルドがギャ ップを獲得した。
年間を八シーズンに分割。
東南アジアの二八社のサプライヤーと日本 市場を結び、キメ細かく商品補充をおこな うという、今で言うサプライチェーン・プ ロジェクトであった。
現在のSPA(製造 小売り)モデルの原型であった。
デルの時と同様にギャップのプレゼンテ ーションでも、ITを営業のツールとし、 いかにギャップと二八社のベンダー、そし て富士ロジテックの間で、シームレスな情 報共有を構築するかがキーポイントであっ た。
富士ロジテックのそれまでのアパレル 業界での実績も考慮していただけたとは思 うが、企業風土、財務状況、鈴木威雄社長 の人格等も高く評価されたようだった。
ギャップ社長のフィッシャー Jr 氏も来日 し、当社のいくつかのサイトを視察しても らった。
しかし氏はオペレーションに関す ることよりも、富士ロジテックの財務状況 や経営戦略についてのほうに、はるかに強 く関心を持っていた。
長期的視野のもとに、 堅実な経営を行う人物と感じた。
その当時、富士ロジテックアメリカは、 ウォルマートの店舗への配送業務を担って いた。
さらにギャップのロジスティクスに 携わることになったことで、くしくもギャ ップのSPAと、ウォルマートが進めてい た C P F R ( Collaborative Planning Forecasting and Replenishment )のビジ ネスモデルの違いをまざまざと見ることが できた。
両社を比較すると、ロジスティクスに対 する要求スペックは、SPAよりもCPF Rのほうがはるかに厳しいものがあった。
CPFRは徹底的なデマンド・チェーンで あった。
それだけにCPFRの方が市場の 変化に対応スピードが速いように感じた。
余談ではあるが、その当時の経験が現在 のEXEでのSPAとCPFRのシステム 構築に大変役立っている。
SPAモデルを 大幅に改良して、「New SPA」という ITシステムを今年に販売開始したが、そ のベースとなる構想はこのときの経験に多くを負っている。
PROFILE つむら・けんいち1946年、静 岡県生まれ。
71年、早稲田大学 政治経済学部卒。
同年、鈴与入 社。
79年、鈴与アメリカ副社長 就任。
フォワーディング業務、3 PL業務を展開。
84年、米シカ ゴにKRI社を設立し、社長に就任。
自動車ビック3、IBM、コンパッ クといった有力企業とのビジネ スを経験。
92年、富士ロジテッ クアメリカ社長に就任。
98年、 イーエックスイーテクノロジー ズの社長に就任。
現在に至る

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