ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2002年7号
判断学
内部告発の論理学

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

JULY 2002 66 た肉まんに非認可の添加物が混入していたということが発覚し、 「ミスタードーナツ」を全国に展開しているダスキンが摘発さ れて、大きな問題になっている。
雪印食品の場合、はじめは「現場の担当者の責任だ」と言 い逃れをしていたが、やがて元専務が逮捕されたことで「会社 ぐるみ」の犯罪だったということがわかった。
ダスキンの場合 もトップがこれを知っていながら隠していたことがはっきりし ている。
これまでの公害、薬害、食品中毒事件では、いずれも始め は「現場の担当者がやったこと」としていたが、いずれも「会 社ぐるみ」でやっていたことが明らかになっているというケー スが多い。
「会社本位主義」の日本では、すべては会社のため にやられるのだが、その多くは会社という組織ぐるみで行われ る。
個人が自分の思いつきでなにかをするということもないではないが、その場合でもあくまでも「会社のため」に行うので あって、個人の利益のためにするのではない。
個人の利益目的 のためにやる行動は社内で厳しく罰せられるし、それを許すよ うな会社は日本には存在しない。
「会社ぐるみ」の責任 「会社ぐるみ」で行った行為については誰が責任を持つべき なのか。
会社というのは法人であり、したがって会社の行為に は会社が責任を持つというのが当然である。
では法人である会 社をどのようにして処罰するのか。
法人を刑務所に入れること ができるのか。
法人を死刑にすることができるのか。
日本の刑法では、法人には犯罪能力がなく、したがって法 人を処罰することはできないということになっている。
犯罪は 行為である以上、行為能力のある者、すなわち意思能力のあ る自然人にしか犯罪能力はない、というわけだ。
そこで「会社ぐるみ」の犯罪の場合、具体的に犯罪行為を した人間を見つけなければならない。
現場の担当者がまずその 責任者とされるのだが、しかしこれでは「会社ぐるみ」の犯罪 雪印食品が解散に追い込まれた。
これまで日本に罪を犯した 会社は数多くとも、それによって潰れてしまったケースは例が ない。
もともと法人を刑務所に入れたり、死刑にすることはで きない。
刑法で処罰の対象になるのは自然人だけだ。
会社ぐる みの犯罪であれば当然、経営者がその責任を問われなければな らない。
しかし、これまでは会社ぐるみの隠蔽工作によって、 それを担当者の責任にすり替えてきた。
多発する内部告発が、 こうした法人資本主義の欺瞞をうち砕く。
雪印、ダスキン事件 「偽装牛肉事件に端を発した企業ブランドの失墜は、半世紀の 歴史を持つ食品会社を消滅にまで追い込んだ」――雪印食品 の解散決議を報道する「朝日新聞」(二〇〇二年二月二三日) はこのような書き出しから始めていた。
一九五〇年に創業、東京証券取引所二部上場の中堅食肉メ ーカー、と言うよりも、雪印乳業が六五・六%の株式を持つ 子会社で、雪印ブランドでハム、ソーセージ、ジャムなどを製 造販売している会社である。
この会社が解散を決議し、二〇 〇二年四月末で会社がなくなってしまった。
これまで公害や薬害、あるいは食品中毒事件などを起こし た会社はたくさんあるが、そのためにつぶれてなくなってしま ったという会社は、少なくとも大企業にはない。
チッソや森永 乳業、大日本製薬などいずれも今も生きている。
ミドリ十字は 合併して三菱ウェルファイドと社名は変わっているが、存在し ている。
その点で雪印食品の解散は日本の株式会社の歴史にとって 新しいページを開いたものといえる。
しかも雪印食品解散のあ と、今度は親会社である雪印乳業自体の存続が危うくなって おり、大幅な減資と既存部門の分離を余儀なくされている。
そういったところへ、新たに「ミスタードーナツ」が販売し 、、、 67 JULY 2002 ということにはならない。
当然のことながら経営者がその責任 を取らなければならないのだが、この経営者の責任があいまい にされているところに大きな問題がある。
「日本は無責任資本 主義の国だ」とかねてから私は主張している(奥村宏『無責任 資本主義』東洋経済新報社)が、法人資本主義の本質がここ にあると言ってもよい。
「会社ぐるみ」の犯罪にはトップの経営者が責任を持たなけ ればならないのだが、そこから逃れようとする。
そのためには 「会社ぐるみ」で犯罪行為を隠蔽しなければならない。
そこか ら「会社ぐるみの隠蔽工作」がなされる。
雪印食品の場合でも、ダスキンの場合でも「会社ぐるみの隠 蔽工作」はうまくいっていた。
外部にバレないようにしていけ るとトップは思っていたに違いない。
ところがそうはいかなかった。
なぜか。
内部あるいは周辺に 告発する者がいたからである。
雪印食品の場合は取引先の倉 庫会社が、そしてダスキンの場合は下請け業者が告発したから である。
これらに限らず最近の企業犯罪事件のほとんどは内 部告発によって表面化している。
野村証券の総会屋事件は担 当者が告発したものだったし、三菱自動車のリコール事件も 内部告発だった。
雪印食品やダスキンの場合は従業員による 内部告発ではないが、取引業者という、いわば内部に近いと ころから告発が出ているのである。
崩れる会社本位主義 これまでの日本は会社本位主義の社会であり、会社のため に全ての人が忠誠を尽くしてきた。
会社のためならたとえ悪 いことであっても平気でやるというのが会社本位主義である。
国家のためなら人も殺す。
これが国家主義なら、会社本位主 義は忠誠の対象が国家から会社に変わっただけのことである。
この会社本位主義こそが日本経済を高度成長させた原動力であったし、日本の大企業をして世界に冠たる存在にしたも のであった。
そういう社会では会社の悪いことを内部告発す るような人間はいなかったし、例えいたとしても、その人は変 人とみなされ、「村八分」にされた。
内部から告発する者がいなければ、会社は悪いことも平気 でやれたし、経営者はそれが表面化することを心配すること はない。
総会屋にカネを渡すのも、欠陥車のリコール隠しも こうして平気でやられていた。
食品の偽装もまたしかり。
「ま さかバレることはないだろう」と思ってやっていたのである。
経営者の多くはそう思っていたに違いない。
ところがそう はいかなくなっていた。
時代の状況が変わっていたのである。
会社本位主義を支えていた基礎の構造が崩れはじめていたの である。
法人資本主義という構造が崩れ、その上に立脚して いた会社本位主義が崩れはじめていた。
これが九〇年代にな ってからの大きな変化であることは言うまでもない。
法人資本主義の構造が八〇年代のバブル経済を生み出した のだが、九〇年代になってバブルが崩壊するとともに法人資 本主義の構造も崩れはじめた。
それまで会社がすべての人間 JULY 2002 68 ない人間のなかに山折氏のような現実を知らない学者とそして 大企業の経営者がいる。
その判断の間違いが雪印食品やダス キンのような事件を起こさせているのである。
企業には社会的責任がある。
これからの企業は社会に開か れたものでなければならない。
こういうことを企業経営者が言 うのだが、そもそも法人である企業には責任能力はない。
あく まで責任は自然人である人間が持たなければならない。
そうだ とすると会社の代表者である経営者が会社の責任を取らなけ ればならないということになる。
そして従業員にも市民としての責任がある。
ということは、 会社が悪いことをしていると知ったならばそれを告発する責任 があるということである。
内部告発は「裏切り行為」どころか、 市民としての責任なのである。
イギリスなどではこの内部告発 を制度化して奨励しているが、日本もそうすべきではないか。
おくむら・ひろし1930年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷 大学教授、中央大学教授を歴任。
日本 は世界にも希な「法人資本主義」であ るという視点から独自の企業論、証券 市場論を展開。
日本の大企業の株式の 持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判 してきた。
主な著書に「企業買収」「会 社本位主義は崩れるか」などがある。
を包摂し、会社人間しか存在しないようにみえた日本で、会社 人間から脱却する人間が出てきたのである。
そしてバブル崩壊とともに、当の会社自体がつぶれるように なった。
会社がいつつぶれるかわからないということになれば、 もはや会社本位主義は成り立たない。
会社がつぶれない場合でも、いわゆるリストラで会社が平気 で従業員をクビにするようになった。
そんな会社に忠誠を尽く す人間はもはやいない。
なにより若者の意識が変わった。
これまで大量に新卒者を採 用していた大企業が採用人員を減らし、なかには採用ストップ をする会社もある。
そうなると若者はもはや会社人間を人生の 目的とすることはできない。
こうして会社本位主義が音を立てて崩れ始めたのだが、そう いうなかで内部告発がつぎつぎと表面化してきたのである。
こういう状況の変化を日本の大企業経営者は認識していな かった。
経営者の中にも「これからは会社人間は必要ではない。
スペシャリストが必要なのだ」と言うような人もいたが、まさ か自分の会社で内部告発者が出るなどということは考えてもい なかった。
この判断の間違いが雪印食品という会社をつぶした のである。
永遠だと思っていた会社がある日突然なくなるとい う事態がこうして起こったのである。
内部告発は裏切りか このようにして起こった内部告発だが、これは「正義の名に よる『裏切り行為』である」という人がいる。
宗教学者で、国 際日本文化研究センター所長という肩書きの山折哲雄氏であ る。
「中央公論」の二〇〇二年六月号に前記のような題で山折 氏は内部告発を告発している。
そしてこれまでこのようなこと は「共同体の秩序形成のためにはどんな犠牲を払ってでもやっ てはならない悪であった」と言う。
山折氏は会社を共同体であると思っているようだが、そうい う会社観を持っている人間はもはや少なくなっている。
その少

購読案内広告案内