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75 MARCH 2007
佐高信
経済評論家
全徳島新聞労組三〇周年の記念会で講演し、
そこで会った元徳島新聞論説委員長の岸
きし
積つ
も
るに
「?四国連邦〞会議」について教えられた。
のちに岸が送ってくれた徳島新聞社編『徳島
近代史?幕末・維新編』(徳島県史料刊行会)
のその項によれば、こうである。 この項は岸の
執筆になる。
明治新政府発足直後の明治二年に四国会議
といわれる?議会〞があった。
これに参加したのは、徳島、高知、丸亀、多
度津、松山、宇和島、大洲、西条、小松、今治、
新谷、吉田の十二藩で、四州会とも称した。
また、第一回が讃岐の丸亀で開かれたので、
丸亀会議とも言い、第二回以後は琴平で開かれ
たので、琴平の別名の金陵(琴陵)会議と呼ん
だとも言う。
リードしたのは高知藩だった。 つまりは土佐
である。
薩長土肥で新政府の一角にあるとはいえ、主
導しているのは薩長だから、四国をまとめてそ
れに対抗しようという思惑が土佐にはあっただ
ろう。
琴平には会議所を設け、各藩の公議人(代議
士)を常駐させて、最盛期には月に十二日も例
会を開いた。 その上に、のちの衆議院議長片岡
健吉らが参加した重役会がある。
海賊取り締まりを協議したり、吉田藩の一揆
の鎮圧に高知藩が協力したり、さらには留学生
の交換などもやったが、明治三年八月、政府から解散を命ぜられ、消えてしまう。 私はこの事実を知って、なるほどと思った。
二〇〇四年秋に高知新聞に招かれて、内橋克人、
イーデス・ハンソン、そして、高知県安芸郡馬
路村の村長、上治堂司と共にパネルディスカッ
ションをした。
高知のあすを語るものだったが、その時、高
知新聞が提起した高知県独立論に仰天した。 感
嘆の驚きだが、これは明治の初めからあったと
いうことになる。
明治一四年には、土佐の宮地茂平と紀州の栗
原寛亮が「地球上自由生」と称して、太政大臣
の三条実美に「日本政府脱管届」を出している。
しかし、このため、二人は直ちに捕らえられて
一〇〇日の懲役刑を受けた。
そうした伝統に立っての独立論である。 読者
の反応は凄かった。 たとえば安芸市の女性はこ
う言っている。
「私が考えよったことと一緒や!
そうそう、
そうながよ!
いっそ独立したらえいがいよ。
四国の片田舎で、こんな途方もない構想をフィ
クションとはいえ公の新聞紙上で討論するほど
地方は追い詰められている、ということさえ中
央の政府は気付いてないでしょうね。 県民の一
人ひとりが、自分たちの生活や価値観を見直し、
声をあげることで高知の行方も何か見えてくる
かもしれません」
東津野村にIターンしてきた男性の意見も示
唆に富む。
「当たり前のことですが、『日本という国』が
今までやってきたことを続けては独立する意味
がありません。 『日本』で失敗したのだから、
その反対のことをやるのはどうでしょう。 例え
ば『食糧自給率一〇〇%』『反市場万能主義
(北欧の国々を参考に)』『軍事費なし、教育費
増強』『天上がり的人材起用(日本に幻滅して
しまった人材をどんどん招き入れて)』」
「忘れてはいけないのは、私たちは『日本と
いう国の一部』であったこと。 すなわち私たち
一人ひとりの中にも、改めなければいけない、
独立しなければいけない『日本』があるのです」
土佐清水市の男性は憲法について提言する。
「もし日本が憲法を捨てるようであれば、高
知県は独立してそっくりそのまま憲法を継承す
る。 小さくてもコスタリカの存在は大きい。 い
かに小さくても不戦国家は普遍の人類の悲願で
ある。 戦争を志向するような国に未来はない」
高知県独立の刺激的な提案に高知市の男性
は国名として龍馬国を挙げていたが、民権国の
方がふさわしいだろう。
明治の初めから存在する四国高知の独立論
高知新聞の提起から見える『日本という国』
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