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佐高 信
経済評論家
APRIL 2011 94
その死を『産経新聞』が大きく報じていた。
『産経』だけと言ってもいい。 いわゆる「正論」
文化人だったからだろう。 関西大学の元教授
で評論家の谷沢永一の死である。 作家の開高
健の盟友としても知られる谷沢は、若き日に
はバリバリの共産党員だった。 経済評論家の
長谷川慶太郎と同じである。
その谷沢がゴリゴリの保守反動に転向して
ベストセラーを連発するのを、私は折りに触
れて批判してきた。 重用するメディアが谷沢
のかつての言説をほとんど知らないように見
えたからである。
たとえば『噂の真相』の「タレント文化人
筆刀両断」でも、おおよそ、次のように斬っ
て捨てた。
「昭和史のバランスシート」と副題された谷
沢の『「正義の味方」の嘘八百』は自分の昔
を棚に上げて「戦後左翼」を罵った本だ。 結
構売れているらしいが、こんな本をおもしろ
いと思う人は、自分の教養の低下を三嘆した
方がいい、と。
谷沢は、まず、「太平洋戦争は全国民の責
任である」と、お定まりの一億総ザンゲ論を
蒸し返し、「天皇陛下の御聖断がなかったな
らば」、二・二六事件の青年将校たちは処刑さ
れずじまいであったかもしれないと「御聖断」
を讃える。 そして、「今こそ、戦後左翼が捏
造した偏向史観は問い直されるべきではない
だろうか」とミエを切るのだが、それこそ「戦
後左翼」であった自分の責任はどうなるのか。
多分、谷沢は、処刑された青年将校の一人
の磯部浅一が、農村の恐慌を放置して日本を
戦争に走らせた天皇の責任をも問い、
「天皇陛下、何といふ御失政でありますか。
皇祖皇宗にお謝りなさりませ」
と刃を突きつけたのが気に入らなかったの
だろう。
他人のアラをさがして意地悪く攻撃する書
評で売り出しながら、一方、自分はうつ病で
ナーヴァスだと言っていた谷沢は、こうした
批判に先まわりするかのように、「節操」と
題して次のように書いた。
「節操を至上価値と考えるのは勝手だが、
反駁し難い正論を消し去る為に、討論を回避
する口実として、節操を振り廻すのは卑怯で
ある。 節操堅固なイデオロギー狂人こそ国家
的不幸の元凶かもしれない。 日本および日本
人にとっての風見鶏として清水幾太郎が果た
してきた役割を考えるなら、彼に、?節操?
を期待するのはお門違いであろう」
谷沢の神経質な先まわりに肩すかしを食わ
せるわけではないが、私は谷沢のような「本
の虫」に?節操?を期待するつもりはなかっ
た。 そんな、ないものねだりをするほど私も
ヒマではない。
言いたいことはただ一つ、かつての「イデ
オロギー狂人」から、いつ、どういう理由で
変わったのか、それを言ってもらわなければ、
あなたの言説は信用ならないではありませんか、
ということだけだった。 なぜなら、「風見鶏」
はまた変わるかもしれないからだ。
他人の誤植を笑い話にしたり、無知な東大
教授を痛烈に批判したりして、旧友の向井敏
に「鬼をもひしぐ激烈な論争家」と持ち上げ
られた谷沢が、渡部昇一との対談という形で
出した『読書連弾』が誤植も多く、挙げてい
る本の題名や著者名をまちがえていたりして、
あまりにズサンだったので、それを指摘した
手紙を出したら、谷沢は「仰せの通りで恐縮
の至り」「鬱症不調のため殆ど点検手入れで
きなかった」「今後は再びこのような失態を
招かぬよう慎重に自戒いたします。 申しても
詮ないことですが、なにとぞお許し下さい」
という言いわけにもならない葉書をよこした。
その後、谷沢がホストをしている雑誌の対
談に招かれ、気味が悪いほど持ち上げられたが、
掲載されても変わらず谷沢を批判したら、著
書も送ってこなくなった。 おだてがきかない
と悟ったのだろう。
その思想的転向の理由は何だったのか
保守派「正論」文化人の谷沢永一が死去
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