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奥村宏 経済評論家
AUGUST 2011 68
??デタラメ?学者
東京電力福島第一原発の事故から四カ月以上経った今で
も、事故に関する報道は連日続いている。 そういうなかで事
故を起こした責任は誰にあるのか、ということが改めて問わ
れている。
事故の責任が東京電力にあることは言うまでもないが、そ
れと同時に「原発は絶対に安全だ」と東京電力を始めとする
電力会社をバックアップしてきた?御用学者?たちの責任が
問われている。
その代表が原子力安全委員会の委員長である斑目春樹であ
る。 元東大教授で、原子力の専門家として知られている。 今
度の震災直後、菅首相に呼ばれ「爆発する危険性はないの
か」と問われて、「大丈夫です。 水素はありますが、爆発す
るようなことはありません」と答えた。
それに対して「水素があるんなら、爆発するだろう!」と
怒鳴られたという。 そこでマダラメではなく、デタラメだと
言われているという。
これは佐高信『原発文化人
50
人斬り』(毎日新聞社)とい
う本に載っているが、さらに広瀬隆『福島原発メルトダウン』
(朝日新書)には斑目春樹についてこう書かれている。
「彼は浜岡原発運転差止訴訟で、被告の中部電力側の証人
として証言し、中部電力の広報宣伝マンとして『原発は安全
だ』とくり返し、地元では『デタラメハルキ』と呼ばれるほ
どいい加減な人間だとして批判され」ている(同書一八五〜
一八六頁)。
このような?デタラメ学者?が原子力安全委員会の委員長
をつとめ、マスコミに登場して「原発は絶対安全だ」と宣伝
してきたことに改めて驚かされる。
そのような学者とはいったい何者なのか、ということが改
めて問われる。 東大教授の権威が地に落ちたというより、そ
の?化けの皮?が剥がれたということなのか‥‥。
会社に奉仕する東大教授
これはなにも原子力学者に限られたことではない。 東京電
力の周辺には原子力工学者だけでなく経済学者や社会学者、
あるいは政治学者、法学者などたくさんの御用学者が群がっ
ている。
例えば『東京電力五〇年史』を書いたのは東大教授を始め
とする経済学者たちであり、会社に代わって東京電力の宣伝
をしている。
そこでは東京電力がいかに社会的責任を果たしているかと
いうようなことを書き立てているが、原子力発電の危険性な
どについてはひと言も触れていない。
その著者のひとりである元東大教授は、今回の福島第一原
発の事故が起こってから「原発は必要悪だ」というようなこ
とを言っているが、『東京電力五〇年史』には「必要悪」な
どという言葉はまったく出てこない。
この『五〇年史』はもちろん東京電力からカネが出て、学
者たちはそれをもらって書いたのだから、会社の宣伝をする
のは当たり前のことだと考えていたのかもしれない。
それなら東大教授を辞めて、宣伝マンとして東京電力に雇
われるか、あるいはその下請け業者になるべきである。
一方で東大教授という権威を振りかざし、いかにも学問は
中立的であるというような装いをしながら、他方で東京電力
からカネをもらって会社の宣伝をする。
このような御用学者がはびこっていたが、世間はこれまで
これを当然のことのように受け止めてきた。
今回の東京電力福島第一原発の事故で、このような御用学
者の正体が明らかになり、マスコミもそれを攻撃しているに
もかかわらず、?御用学者?は知らぬ顔をして通している。
いったい東大教授とはなにものなのか?
学者とはいったいどういう人間なのか、ということが問わ
れているのである。
原発事故後、政府や電力会社に対する不信感が募っている。 一方、電
力会社にカネで買われた“御用学者” の存在にも注目が集まるようになっ
た。 事故により、御用学者の正体が誰の目にも明らかになってきている。
第111回 地に落ちた東大教授の権威
69 AUGUST 2011
学問とは何か?
そこへ今回の東京電力の大事故が起こった。 これに対して、
御用学者たちは会社側の弁護をしているのだが、もはや誰も
そんな学者を信用しない。 それこそ?デタラメ学者?として
軽蔑されこそすれ、尊敬する人などまったくいない。
菅首相がそういうデタラメ学者を怒るのも当然だが、多く
の政治家や官僚はいぜんとしてそのようなデタラメ学者を尊
敬しているように装っている。
化けの皮がはがれたにもかかわらず、?化けの皮?を尊敬
しているように見せる。
これが現状だが、しかし東大教授を始めとする御用学者の
権威も地に落ち、誰もそれを尊敬しなくなっている。
東京電力の今回の事故は、そういうことを明らかにしたと
いう点で大きな意義があったと言える。
そこで問われているのは「学問とはいったい何か」という
ことである。
明治以来、日本では外国の学問を輸入し、それらを解釈し
て日本に適用するということをもって学者の仕事、すなわち
学問だとしてきた。
そのうちに政府や大企業の利益のために奉仕するような学
者が増え、御用学者がはびこるようになったが、それを大学
の権威によって守ってきた。 その結果、御用学者が大きな顔
をして幅を利かせるようになったのだが、それがもはや通用
しなくなった。
今回の東京電力の事故はそのような状況を誰の目にも明ら
かにしたのだが、ここで改めて学問とは何か、学者とはどう
いう職業なのか、ということが問われる。
それは原子力工学だけでなく、すべての学問について言
えることなのだが、このことが最もわかっていないのが当の
?学者?たちであるとしたら、これはもはや救いがたい。
これが?御用学者?のなれの果てである。
?御用学者?の正体
このように御用学者がはびこっているなかで、ごく少数な
がらそれに抵抗した人物がいる。
その代表が高木仁三郎であり、この人は東大の理学部を卒
業したあと、当時できたばかりの日本原子力事業という会社
に就職し、原子力事業の現場で働いてきた。 そのなかで原子
力事業に疑問を持つようになり、会社を辞めて一時は東京都
立大学の助教授になったが、まもなくそれも辞めて、原子力
資料情報室という反原発運動のための組織を作ってそれに専
念していった。
このことは一九九九年に出た『市民科学者として生きる』
(岩波新書)に詳しい。 これを読むと「こういう学者もいた
のか」と改めて感心するが、しかしこのような人はもはや
?学者?とは呼ばれない。 市民運動家というしかない。
もっとも原子力工学の学者として大学に残っていながら、
少数派として生きてきた人もいる。 例えば安斎育郎で、彼は
東大原子力工学科の一期生で、原子力工学科を追われて医学
部の助手になったが、研究室では「安斎とは口をきくな」と
言われていたという。
それというのも東大を始め有名大学には東京電力などから
巨額の研究費が支出されており、それを受け取る大学側はス
ポンサーである電力会社のご機嫌を損ねるようなことは絶対
にできないからだ。
こうして「カネで学問を買う」ということが当たり前にな
り、御用学者ばかりがはびこるようになる。
かつて学生運動が盛んな頃はこの御用学者に対する批判が
強かったが、その後、そういう声はどこかへ消えて、?御用
学者?という言葉さえ忘れられていった。
それほど御用学者という存在が当たり前のことになり、も
はやそんな言葉をわざわざ使う必要もなくなった、というわ
けである。
おくむら・ひろし 1930 年生まれ。
新聞記者、経済研究所員を経て、龍谷
大学教授、中央大学教授を歴任。 日本
は世界にも希な「法人資本主義」であ
るという視点から独自の企業論、証券
市場論を展開。 日本の大企業の株式の
持ち合いと企業系列の矛盾を鋭く批判
してきた。 近著に『経済学は死んだのか』
(平凡社新書)。
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