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佐高 信
経済評論家
NOVEMBER 2013 66
オリンピック招致が決まったことがそん
なにメデタイことなのか。 東京さえ「安全」
なら福島はどうでもいいというのが、安倍
首相のアンダーコントロール発言だった。 東
日本大震災の復興が遅々として進まぬ中で、
東京でオリンピックをやろうとする神経が私
には理解できない。 しかし、メディアには
そんな声はほとんど載らない現状である。
そう思っている時、一〇月十二日号の『週
刊現代』の「人生のことば」に、
「私は日本のためではなく、朝鮮のために
走ったのです」
という孫
ソンギジョン
基禎の「寸言」が引用された。
これを収録した轡田隆史は元朝日新聞の
記者だが、父親も同業で、一九三六年夏、
ベルリンで開かれたオリンピックの男子マラ
ソンで優勝した孫のこの言葉を聞きながら、
記事にはできなかったという。
当時、朝鮮は大日本帝国の植民地であり、
孫は「日本代表」として走った。 それから
六四年。 シドニー・オリンピックの女子マラ
ソンで高橋尚子が優勝する。 メディアはこぞ
って、六四年ぶりの日本人選手の金メダル
と報じたが、六四年前の「日本人選手」が
孫であることはもちろん、孫がどんな思い
で走ったかに触れることはなかった。
孫は自伝の『ああ月桂冠に涙』(講談社)
に「私はそれまで、私の表彰式に日章旗
が掲揚されるとは正直思ってもいなかった。
オリンピックに出場するまで、優勝者の栄光
をたたえて国旗を掲揚し、国歌が演奏され
るという儀式を知らなかった」と書いている。
それだけに、メインポールにはためく日の
丸を見ながら、君が代を耳にすることは孫
にとって「耐えられない屈辱」だったので
ある。 表彰台で孫は思わず頭を垂れ、自分
が日本の国民なら、なぜ、朝鮮の同胞は大
日本帝国の圧政に呻吟しなければならない
のか、と考えた。 そして、二度と日の丸の
下では走るまい、と心に決めたという。
たとえば日本がアメリカに占領され、日本
人選手が星条旗を胸に走ったようなものだ
からである。
そんな思いもあって、孫は優勝祝賀会を
欠席し、ベルリン在住の安鳳根の歓迎宴に
参加する。 そこで、生まれて初めて、祖国
の国旗である太極旗と対面した。 安鳳根は
伊藤博文を銃殺した安重根の従弟である。
そしてまもなく、「日章旗抹消事件」が起
こる。 山本典人の『日の丸抹消事件を授業
する』(岩波ブックレット)から、一九八九
年に来日した孫が山本に語った言葉を引く。
「わたしが抹消事件の全容を知ったのは、
ベルリンから帰国中のシンガポールに寄港し
たときでした。 大きなショックを受けまし
たね。 胸に日章旗をつけて表彰台に立った
わたしの姿は、全世界に電送されたのです。
だが日章旗抹消はこの直後に敢行されたの
ではないのです。 優勝してから一六日目の
八月二五日、興奮のほとぼりの覚めたころ
を見計らって実行されたのです。 それも、『東
亜日報』の一版は検閲を予想して胸の日章
旗をはっきりと出し、二版で抹消したのです。
だが、それの発覚は一時間後でした。 (朝鮮)
総督府はわたしの優勝で興奮している同胞
の動きを監視していたのでしょう。 激怒し
た日本の警官らが津波のように押し寄せ、『東
亜日報』の社員を根こそぎ逮捕し、拷問し
たのです。 さらに新聞も一〇カ月、発行停
止処分になっています」
優勝直後、孫はサインを求められると、朝
鮮半島の略図を描いた上にKOREAと書き、
ハングルで自分の名を記した。 それから三四
年後の一九七〇年夏、ベルリンを訪れた韓国
人が記念碑の孫の国籍のJAPANをノミで
削り、「KOREA」と彫り直す事件が起こ
る。 IOCの意向でJAPANに復元され
たが、「JOCがIOCに国籍変更を申し出
れば解決する」と孫は語っている。
植民地朝鮮「日本代表」だった孫基禎の思い
昔から変わらぬ礼賛一色のオリンピック報道
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