ロジビズ :月刊ロジスティックビジネス
ロジスティクス・ビジネスはロジスティクス業界の専門雑誌です。
2003年1号
ビジネス戦記
ITベンチャーと手を組みアジア市場に切り込む

*下記はPDFよりテキストを抽出したデータです。閲覧はPDFをご覧下さい。

JANUARY 2003 70 EXEテクノロジーズ 津村謙一 社長 桁違いの高額ソフト EXEテクノロジーズの前身となった「ネプ チューン」と、その創業者のレイモンド・フッ ドを私が始めて知ったのは九四年のことだ。
我々のメンバーの一人、アーノルド・コンセン コが、飛行機に隣り合わせた客が座席に置いて いった雑誌を、何気なしにめくってみたのがキ ッカケだった。
その雑誌にはWMSの「トライデント」と、 それを開発したITベンチャーとしてネプチュ ーン社が紹介されていた。
面白そうな会社だっ た。
しかもネプチューンは我々が本拠地とする ロスアンゼルス・ロングビーチのほど近くに事 務所を持っている。
早速、先方に連絡してレイ モンドとアポイントをとった。
会ってすぐに、彼が極めて優秀なビジネスマ ンであり、製品も優れていることが分かった。
我々は素直にシャッポを脱ぎ、そしてすぐに意 気投合した。
その席でレイモンドはシンガポー ルに拠点を置いて、アジア・パシフィック市場 に打って出たいというアイデアを口にした。
私 も合意し、富士ロジテックとネプチューンで五 〇万ドルずつを出資してシンガポールに共同で 現地法人を作ろうということになった。
彼と始めて会った日の翌週には具体的に話を まとめて、現法の設立に取りかかった。
あまり にも拙速だという印象を受けるかも知れない。
しかし米国では、飛行機でたまたま隣り合わせ たビジネスマンと、フトした会話から意気投合 し、実際に共同事業を立ち上げるという話が、 そう珍しいことではない。
そして腰の軽さを信 条とする私は、そうした米国のビジネスカルチ ャーが嫌いではない。
私のボス、富士ロジテックの鈴木威雄社長も、 その点は私と同じだ。
稟議を上げるとすぐに快 諾してくれた。
ただし富士ロジテックのメーン バンクは強硬に反対した。
五〇万ドルを出すの は渋々認めたものの最大でも追加融資は二〇〇 万ドル。
それ以上はどんなに泣きを入れても、 ビタ一文出さないという。
それでも我々は一〇〇万ドルの資本金を元手 に、シンガポールに着いた翌日に政府当局に申請。
仮事務所を借りて、スタッフを確保した。
現地法人の社名はトライトン(トリトン)にし た。
ネプチューンというのはローマ神話に出て くる海の神様で、ギリシャ神話のポセイドンに 当たる。
トリトンはその息子。
ネプチューン社 のソフトウェア「トライデント」を販売する会 社の社名としては相応しい。
とはいえアジア市場における具体的な販売方 法はといえば、私もレイモンドも全くのノーア イデア。
シンガポールはアジア・パシフィック の物流のハブだ。
そこにはWMSのニーズもあ るに違いない。
そう単純に考えていた。
当時、シンガポールにはフランスのWMSベ ンダーと日系ベンダー数社が進出していた。
し 【第9回】 ITベンチャーと手を組み アジア市場に切り込む 日本で開発した倉庫管理システムを本場の 米国に売りつけよう――勇んで米国市場に乗 り込んだものの、いくら営業に歩いても全く 売れない。
改めて米国の有力パッケージソフ トを分析した結果、我々の製品とはレベル的 に格段の差があることを認めざるを得なかった。
我々は戦略の転換を迫られた。
71 JANUARY 2003 かし、どこも大赤字で、当社が進出してすぐに 日系ベンダーが撤退。
フランス系ベンダーも撤 退間近という状態だった。
そこに新たに進出し た我々が、余りにも楽観的なので現地の関係者 は全く呆れ返っていた。
ある同業者に至っては「何を血迷ったのか。
こんな知的所有権を全く省みない場所に進出し ても商売になるわけがない。
例え良い製品だと しても、すぐにコピーが出回る。
悪いことは言 わないから止めたほうがいい。
それでもやると いうなら当社のスタッフを引き取ってくれない か。
近く撤退するつもりなので」という。
そういう状態にあったので逆にシンガポール の政府関係者は我々の進出に非常に好意的だ った。
トライトンのお披露目のために、現地の 経済界の重鎮たちを二〇〇人近く集めて、盛 大な歓迎パーティーを催してくれた。
そんな晴 れの席で我々は「トライデント」をプレゼンテ ーションした。
プレゼン後に出席者からは返ってきた質問は ただ一つ。
「ハウマッチ?」だった。
我々は胸 を張って「五〇万ドル」と答えた。
それを聞い て、大勢詰めかけた客のうち四分の三ぐらいが 潮の引くように去っていった。
残った四分の一 は主催者側ともいえる政府当局者。
とても先行 きが明るいとは言えない船出だった。
聞けばフランス系ベンダーのソフトウェアの 価格帯が三〇〇〇ドルから五〇〇〇ドル程度。
日系ベンダーはさらに安く、一〇〇〇ドルから 一五〇〇ドルぐらい。
それでも全く売れなかっ たというのだから、五〇万ドルは常識外れだっ た。
しかし我々には、それだけのバリュー(価 値)を提供できるという自信があった。
事実、よく売れた。
現地法人が営業を開始す ると、まずソニー・シンガポールが採用してく れた。
その後、ビクター、パナソニックと現地 の日系電機メーカーに軒並み採用が決まった。
さらに近鉄エクスプレス、バックス・グローバ ル、シンガポール航空など航空フォワーダーへ と客層は拡がっていった。
いずれも錚々たる会社ばかりだが、それも当 然だ。
実際には設定価格に対して、かなりの値 引きを呑まざるを得なかったが、それでもトラ イデントの価格帯はそれまでシンガポールで商 売していた他のベンダーとは桁が違う。
大手ユ ーザー以外には手の届かない値段だった。
初年度から黒字 周囲の予想を裏切りトライトンは初年度から 黒字を出した。
現法を設立してからレイモンド や私はたまに現地を視察する程度だったから、 これはひとえに現地スタッフの手柄だ。
現地で は米国にいる我々には分からない苦労もあった はずだが、彼らは文句も言わず精力的に動いて いた。
お客が付いてきたのに伴い、トライトンの組 織も拡大していった。
まず、人件費の安いマレ ーシアに拠点を置いて、導入部隊を確保。
次に 香港、台湾、インドネシアに現地法人を作った。
これらの現法では日系企業ではなく、各国内の 大手企業が主なユーザーだった。
それだけ普遍 的なニーズがあったのだ。
そして九六年には、ついに日本市場への参入 を図った。
隔年で開催される東京国際物流展に、 富士ロジテックが富士システムハウスを窓口と して「トライデント」を出品した。
シンガポー ルと同様、日本のユーザーも「トライデント」 の価格帯には驚いていた。
それまで富士ロジテ ックが販売していた「ストックマン」が、せい ぜい二〇〇万円程度。
一ユーザーで一〇〇〇 万円を超えるような案件はなかった。
それでもトライデントが従来の倉庫管理シス テムを遙かに超える射程を持ったソフトウェア であることを説明すると、価格についても納得 してもらえたようだった。
まだ日本ではWMS という言葉など誰も口にしていなかったが、そ の頃から日本でもERP(統合業務パッケージ ソフト)の導入が始まっていた。
業務パッケー ジソフトに対する素地はできつつあった。
国際物流展のブースには多くの人が詰めかけ、 物流企業、メーカー、流通業者など三〇〇社ぐ らいから具体的なアプローチがあった。
悪くな い感触だった。
しかし、イベント終了後に来場 者から寄せられたアンケートを集計し、それを 分析した結果、我々は日本市場への本格参入 を断念せざるを得なかった。
確かに一部の企業から強い要望は来ていた。
それでも彼らが支払うことのできる価格は、ト ライトンが日本に拠点を置いて活動していくた めに最低限必要な経費を下回っていた。
同時に 米国で開発されたWMSを日本市場に適用す るには、かなりのカスタマイズが必要になりそ うだということも分かってきた。
あまり先走っ てユーザーに迷惑をかけてしまうようでは長続 きしない。
そんな判断から、トライトンは日本 市場への拠点進出を見送ることになった。

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