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47 MAY 2003
勉強はダメ、悪知恵は超一流
私の出身は浜松市に隣接する浜北市。 三軒
先の家は浜松市という、ちょうど浜北と浜松の
境目の町に住んでいた。 実家はうどん屋だ。 と
いっても出汁をぶっかけてお客さんに出すうど
ん屋じゃなくて、製麺のほう。 昔なら何処にで
もあった町の小さな製麺所で、親父とお袋が二
人で切り盛りしていた。
男四人、女七人の十一人兄弟の一〇番目と
して生まれた。 男兄弟の末っ子で、下に妹が一
人。 一番年上は現在八三歳だから、二〇くらい
歳が離れている計算になる。 親子といってもお
かしくない。
手の付けられない悪ガキだった。 にもかかわ
らず、下から二番目ということもあって、両親
や兄弟にはとても可愛がってもらった。
自営業とはいっても、田舎の製麺所。 しかも
子供が十一人もいるもんだから、絵に描いたよ
うな貧乏暮らしだった。 勉強も得意なほうじゃ
なかったし、義務教育が終わったら、すぐに働
こうと心に決めていた。 働いて家族を支えると
いうよりも、当時は早く一本立ちしたいという
意識のほうが強かった気がする。
仕事は何でもよかった。 ちょうど私が中学生
になった頃、地元にヤマハ発動機が進出してき
た。 どんな会社かも知らなかったけれど、自宅
から歩いて通勤できるのはいいなと思って、ヤ
マハ発動機の採用試験を受けてみることにした。
動機はそんな程度だった。
当時のヤマハ発動機は狭き門だった。 十五、
六人の募集に対して、約五〇〇人の応募があっ
たらしい。 それでも受かっちゃった。 試験問題
はスラスラ解けたし、面接官への受け答えもち
ゃんとできた。 まあ優秀だったってことかな。
ウソ。 もう五〇年も前のことで時効が成立し
ているだろうから本当のことを話すけど、実は
ヤマハ発動機の採用試験は替え玉受験だった。
頭のいい友達がいて、そいつを脅して試験の答
案用紙にオレの名前を書かせたの。 五〇〇人も
受験者がいると、誰が誰だか分かるわけがない
だろうと思ってね。 勉強はダメでも、悪知恵を
働かせることだけは超一流。 見事に成功したと
きには笑いが止まらなかったよ。
にもかかわらず、ヤマハ発動機は半年も経た
ずに辞めちゃった。 工場でバイクの組み立て作
業を担当していたんだけど、上司とそりが合わ
なかった。 偉そうなことばかりいうもんだから、
頭にきて喧嘩しちゃった。 それでクビ。 せっか
く潜り込んだ職場だったし、大企業で労働条件
も悪くなかった。 色々と勉強させてもらった。
今でも感謝している。 もったいない気もしたけ
ど、まだ若いし何とかなるだろうと楽観的に考
えていた。
バターピーナッツを発明
ヤマハ発動機を飛び出してからは、その日
第2回「
私
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ト
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ッ
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送
業
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始
め
た
か
」
スタートはダンプの運転手だった。 はっきり言って儲かった。 しかし
雨が降れば休業。 あまりにも不安定だ。 そこでダンプを平ボディー型の
トラックに買い替えた。 緑色の営業ナンバーを持たない?白トラ〞って
やつだ。 ところが、なかなか荷主は見つからない。 そうだ。 自分で荷物
を作ればいい。 と、青果物の仲介業に乗り出した。
大須賀正孝ハマキョウレックス社長
おおすか・まさたか
一九四一年静岡県浜北市
生まれ。 五六年北浜中卒、ヤマハ発動機入社。
青果仲介業などを経て、七一年に浜松協同運送
を設立。 九二年に現社名の「ハマキョウレック
ス」に商号変更した。 二〇〇三年三月に東証一
部上場。 主要顧客はイトーヨーカー堂、平和堂、
ファミリーマートなど。 流通の川下分野の物流
に強い。 大須賀氏は現在、静岡県トラック協会
副会長、中堅トラック企業の全国ネットワーク
組織であるJTPロジスティックスの社長も務
めている。 ちなみにタイトルの「やらまいか」
とは遠州弁で「やってやろうぜ」という意味。
――ハマキョウ流・運送屋繁盛記
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暮らしの生活がしばらく続いた。 土方もやっ
たし何でもやった。 その中でも儲かったのは
?バターピー〞の仕事だね。 ビールのつまみと
してお馴染みの塩バター風味のピーナツのこと
だよ。 あまり知られていないけど、実はあのバ
ターピーを発明したのは、何を隠そうこのオレ
なんだ。
当時、うちの兄貴が落花生を農家から買い付
けて、皮を剥いて菓子問屋とかに卸す商売をや
っていた。 兄貴たちが使うのは粒のかたちが綺
麗に揃った豆だけ。 篩(ふるい)から落ちる豆
は商品にならないから全部捨てちゃう。 オレは
そのクズを何とか銭に替えることができないだ
ろうかってずーっと考えていたんだ。
まず譲ってもらった落花生の実をお湯の中に
入れ、次に水に浸して赤皮がきれいに剥けるよ
うな状態にする。 そして、一つひとつ赤皮を剥
いていき、それを油で揚げてみた。 しかし油で
揚げた豆は手でつまむとベトベトするし、食感
もあまりよくない。
そこで、近所の染色屋から使っていない脱水
機を借りてきて、油で揚げた豆をグルグルと回
してみた。 すると、油が遠心力で飛ばされて豆
がカラッとするようになった。 食べてみると、
まあまあ美味しい。 ただし何か味が足りない。
パラパラと塩をかけてみたけれど、油が飛んじ
ゃっているから豆に塩の粒がつかない。
どうしようかと悩んでいた時に思いついたの
がバターだった。 豆に軽くバターを塗ってから
塩を振りかける。 そうすれば塩がこぼれ落ちず
に豆にちゃんとくっつく。 しかもバターは油よ
りも甘みがあり、豆の味にコクが出る。 酒のつ
まみには最高だ。
こうして完成したバターピーを、最初に浜松
の豆屋に持っていった。 「これは美味しい」と
いう話になって、早速買い取ってもらうことに
なった。 これで味をしめて今度は豊橋の豆屋に
売り込んだ。 案の定、こちらでも好評。 あれよ
あれよという間にバターピーの販売先が拡がっ
ていった。
それでもこのバターピーの仕事で一生食べて
いこうとはまったく思わなかった。 というのも
落花生は当時、秋にしか出回らない農作物だっ
たから。 バターピーでは秋の二カ月間を凌ぐの
が、せいぜいだった。 兄貴から原材料である落
花生のクズをもらえるのは秋だけだからね。
今から思えば実用新案とか製造特許をおさえ
ておけば、今頃は「バターピー王」として何不
自由なく生活していたかもしれない。 ただし当
時まだ一六、一七歳でしょう? 学校に行って
いないから、特許なんて言葉も知らなかった。
結局、どこから聞きつけたのか、しばらくす
ると、大資本がバターピー事業をやり始めた。
オレが使っていた染色屋の脱水機はどこかの企
業が大金を積んで持っていってしまった。 そん
なこともあって、いつの間にかバターピー作り
もやめちゃった。
中部地区でバンタム級制覇
あっさりしたものさ。 実はちょうどその頃、
ボクシングにのめり込んでいた。 商売にはそれ
ほど興味がなかった。 両親に迷惑を掛けずに食
べていければいい。 いずれプロボクサーになる
んだ。 そんな程度にしか考えていなかった。
中学生の時から喧嘩というスポーツは大の得
意だった。 ボクシングを始めたら、めきめきと
腕前が上達した。 ランニング、縄跳び、スパー
リングといった練習も全然苦にならない。 喧嘩
とは違って、合法的に相手をぶん殴れるわけだ
から。 とにかく浜松にあるジムに毎日通うのが
楽しくて仕方なかった。
センスはピカイチだったよ。 ちょっと練習し
ただけで、あっという間に浜松では敵なしの選
手になった。 しばらくすると名古屋も制覇して、
中部地区のバンタム級チャンピオンにまで登り
つめた。 でも、しょせんはアマチュア。 それじ
ゃメシは食えない。 やはりプロになるためには
名門ジムの門を叩かねばと思い、一八歳の時に
単身上京した。
しかし、東京で職探しをしていると、ある時、
兄貴がやってきて、こう言うんだ。 「お袋から
話があるから一度実家に帰ってこい」。 仕事を
探しているのに、何で帰ってこいというのか。
意味が分からなかったけど、とりあえず実家に
帰ってみることにした。
実家に戻ると、オレの顔を見た途端、お袋は
突然泣き出した。 「喧嘩を商売にしようなんて
とんでもない」って。 東京には誰も身元引受人
がいなかった。 面接試験を受けていた会社から
実家に連絡が入り、どうもその時に会社が「お
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宅の息子さんはプロボクサーを目指しているよ
うだ」とお袋にしゃべってしまったらしい。 心
配掛けちゃいけないと思って、プロボクサーを
目指すという話はしないで家を出てきたから、
お袋はそれを聞いてビックリしたんだろうな。
お袋に泣いて頼まれたら断れない。 オレはお
袋にものすごく感謝していた。 子供つくるのを
七人とか八人で止めていたら、オレはこの世に
生まれてこなかったんだからな。 頑張って産ん
でくれて、しかも妹までつくってくれた。 そん
なお袋を悲しませたらバチが当たる。 だからプ
ロボクサーの夢はきっぱりと諦めることにした。
実際その日以来、オレはボクシングの試合をテ
レビで観ることもやめた。
ダンプ業から白トラに転身
浜松に戻ってきた時には一八歳になっていた。
最初に自動車教習所に通った。 運転免許があ
れば何か仕事にありつけるだろう。 そんな考え
だった。 しかし会社勤めは性に合わない。 だっ
たら思い切って独立しちゃおうと、ダンプカー
を一台購入した。 カネは全然持っていなかった
けれど、当時は文具屋で売っている手形用紙に
自分で金額書き込んでディーラーに持っていけ
ば、ダンプが買えた。 そんな時代だった。
ダンプの仕事はめちゃくちゃ儲かった。 建設
現場にダンプを持ち込んで仕事をもらい、指示
された場所に土砂などを運ぶ。 毎日休まずダン
プを転がし続けていたら、あっという間に三台
まで増えていた。 しかし、この仕事は雨が降っ
たら休み。 長く続ける商売ではないなと思って
いた。 他人様のことを言えた義理ではないのだ
が、ダンプの世界の荒っぽい水が、どうも肌に
合わなかった。 そこでダンプ三台を手放して平ボディーのト
ラックに買い替えた。 正確にいうとこの時がト
ラック運送業との出会いだった。 といっても営
業用の緑ナンバーではなく、自家用の白ナンバ
ー。 白トラの違法営業だった。
ダンプで簡単に儲けることができたから、こ
っちも簡単だろうと高を括っていた。 が、現実
はそう甘くはなかった。 荷主が全然見つからな
い。 経済は右肩上がりで伸び続けている時。 荷
物は腐るほどあるはずなのに、まったくダメだ
った。
こうなったら自分で荷物を作っちゃおう――。
そう思って始めたのが青果物の仲介業だ。 山梨
や長野の農家から梅やぶどうを買い付けて、名
古屋や大阪の市場に卸す。 トラックも自分で運
転する。 人間はどんなことがあっても三度の飯
は欠かさない。 やはり食品は堅い。 喰いっぱぐ
れる心配はないだろうという読みだった。
しかしこの商売も厳しかった。 安く仕入れた
と思っても、農家から商品を引き取って市場に
運んでいる間に相場が動いてしまう。 儲かるど
ころか逆ザヤが発生して大損することも少なく
なかった。 やはり素人には無理なのか。 苦戦す
る日々が続いた。
そんな時に願ってもない話が舞い込んできた。
市場の相場ではなく、あらかじめ固定した価格
で青果物を買い取ってくれる仲買人(問屋)が
現れたのだ。 場所は大阪。 商品は白菜や大根。
梅とぶどうの商売はさっさと捨てて、このおい
しい話に飛びついた。
売値が決まっているから、後はいかに仕入れ
値を安くできるか、それだけだった。 長野の八
ヶ岳の農協、オウム真理教で一躍有名となった
山梨の上九一色村などの農家に出向いて、白
菜や大根を安く仕入れる。 それをトラックで運
んで大阪の問屋に卸す。 毎日この繰り返しだっ
た。 相手の問屋は現金で買ってくれた。 その日
いくら儲かるかは買い付けた瞬間に分かる。 は
っきりいってボロ儲け。 ウキウキしながらトラ
ックを運転していた。
ただし、この商売も長くは続かなかった。 次
第に問屋の様子がおかしくなっていった。 即日
現金渡しだったのが、一週間後に。 そのうち現
金取引が手形取引にかわった。 それでもバンバ
ン野菜を買ってくれていたからさほど気にはな
らなかった。 しかしそれが大きな落とし穴だっ
た。 大阪の問屋は遂に倒産に追い込まれてしま
った。
それなりに儲けさせてもらっていたため、借
金を抱えるまでには至らなかった。 しかし仕事
を失い、裸一貫になってしまったことに変わり
はなかった。 残ったのは平ボディーのトラック
のみ。 これしかない。 トラック運送業として再
出発する肚を決め、荷主回りを開始したのは二
十一歳の頃だった。
(以下、次号に続く)
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