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JULY 2003 24
――二〇〇〇年春に日産自動車から日産陸送(現ゼ
ロ)に転出し、翌年にはMBOを完了しました。 社長
になったときからMBOをやると決めていたのですか。
「もちろん、そのつもりでした。 この会社は日産の
車両輸送を一〇〇%請け負っています。 お客さんに車
を届けるまでが日産のライフラインだとすると、当社
の業務はまさにその上にある。 このような機能を日産
と競合関係にある企業に売却して、ライフラインを分
断するようなことはしないだろうと思っていました。
MBOの対象にするには絶好の会社だったんです」
――MBOの実現には、全体の青写真を描き、強いリ
ーダーシップを発揮する人材が不可欠です。 御社の場
合は岩下社長がその役割を担ったわけですね。
「そんな人材、どこにもいないからね。 MBOとい
うのは自分でやらなければダメです。 今回のMBOに
はいくつかの要素があった。 まず売り手である日産と
しては株を高く売りたい。 売却益を出したいというの
があった。 順調に売りたいとも考えていたはずだ」
「もう一つは投資ファンドの役割があった。 もちろ
ん我々、経営陣もお金を出してはいますが、そんなも
のは微々たるもの。 やはり投資家を呼んでこなければ
話にならない。 彼ら投資家はいかに安く買うかが重要
だから、売り手とは立場が反する。 これがずるずるい
ってしまい、まとまらないケースが結構ある。 そんな
ときは経営陣がリーダーシップを発揮するしかない。
売り手とファンドを同じテーブルにつかせ、強引に話
を進める。 社長がやらねばできないことです」
――ファンド選びにも、かなり工夫されたようですね。
「これが非常に難しい。 日産としては高く買ってく
れるファンドがいいわけだが、そうかといって事業が
ガタガタになるようでは困る。 MBOでは外資系のフ
ァンドを使うケースが少なくありませんが、僕は物流
「投資ファンドの言いなりにはならない」
日産自動車の海外担当常務から当時、日産の100%子会
社だった日産陸送(現ゼロ)の社長に転出。 2001年に投資
ファンドと組んで、子会社の経営陣が親会社から子会社株
を買い取るMBO(マネジメント・バイ・アウト)を実施
した。 2年後の上場を目指して、停滞していた組織の再生
に取り組んでいる。
ゼロ(旧・日産陸送) 岩下世志社長
会社に外資系は絶対に通用しないと思った。 何か問
題を起こしたときに外人が説明にいったりしたら、お
客さんはそんな会社使わなくなりますよ。 さらに僕は、
売上拡大に貢献できるアイデアを持つファンドを選ぶ
こともあらかじめ決めていました」
――営業戦略にまでファンドが口を出すのですか?
「いやいや、責務として負わせるんです。 当時、僕
が何を考えたかというと、まず一つはファンドが自由
に僕らの首を切れるような状況をなくす。 二つ目はフ
ァンドに相応の責務を課すということです」
「彼らは企業を買い取り、その企業の価値を高めて
上場させてキャピタルゲインを得る。 つまり我々と同
じ目的の下で動いている。 それなのにファンドから一
方的に『業績が悪い』と責められたら、『じゃあ、お
前は何をしたんだ』ということになる。 だから僕は、
当社の売上増大に寄与するアイデアを持ったファンド
と組むというのを非常に強く打ち出したんです」
MBOを成功に導いた秘訣
――そんなことを考える経営者はあまりいないでしょう。
「いないだろうね。 でも僕は、そう考えた。 この会
社は現在、売り上げが壁にぶつかって伸びなくなって
います。 一時期、五五〇億円あった売上高が四五〇
億円くらいまで落っこちてきている。 この状況に歯止
めをかけなければまずい。 であれば、せっかく入って
くるファンドを利用しない手はない」
「でも僕がファンドを選んだとき、日産の担当者が
怒って電話をかけてきた。 『売るのはうちだ。 ファン
ドを勝手に決めるな』と言ってね。 だから、うちは最
初から東京海上キャピタルを検討対象にすると決めて
たんだけど、そこに日産が紹介してきた七社も加えて
検討を重ねた。 そして最終的に東京海上キャピタルと
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AIGジャパン・パートナーズの二社に決めました」
――徹底して岩下社長のペースですね。
「ファンドを選ぶときに一番、問題になるのがコス
トです。 MBOなんかをやると必ず近寄ってくるコン
サルタントがいる。 僕も知人からコンサルタントを紹
介された。 そいつに、いくらかかるんだと聞いたら
『二億五〇〇〇万円はかかるでしょう』とかいう」
――コンサルタントは何をしてくれるのですか。
「まあ、いろんなスキームを作ってくれるんだけどね。
しかし、うちは一切拒否した。 そして結局、三〇〇〇
万円しか使わなかった。 これだけは企業評価のために、
どうしても必要だったからね。 うちがMBOで成功し
た理由の一つは金をかけなかったことです。 これほど
の大型案件を三〇〇〇万円でやれた例は、他にないん
じゃないかな。 すべて自分でやりました」
「それからもう一つ、期間が圧倒的に短かった。 僕
がこの会社に来たのが二〇〇〇年六月。 八月から本
格的な作業に取りかかって、もう十二月にはファンド
を決めていました。 最後は手続き上の問題で翌年五月
の連休明けまでかかったけど、決着という意味では三
月末についていた。 正味の期間はわずか半年ですよ」
――短期間で集中力を発揮できたのは、自分もお金を
出すというのが大きかったのでしょうか?
「そりゃそうだよ。 自分のものになるわけだから」
――MBOのなかには、投資ファンドに牛耳られて社
内が上手くいかなくなった事例もあると聞きます。
「そうなってしまったらダメです。 ファンドは必ず社
長の首を切ってくる。 ただウチの場合は、あらかじめ
東京海上との契約で、彼らの持ち分のうち二七%を
割譲するように最初から決めていました。 だから僕が
四〇%の株式を握ってしまっている。 これは普通のM
BOとはまったく違います。 つまり、この会社を悪く
すると株主訴訟の対象になるリスクは僕が一番高い」
「僕が連れてきた出資者は、うちのお客さんの中古
車業者三社、リース会社二社、住友商事、それから
協力会社です。 ようするに我々のビジネスパートナー
を入れてある。 だから会社を潰しでもしたら大変です。
普通は経営者が首を切られるだけで賠償請求なんかさ
れない。 でも僕の場合は、圧倒的なリスクを負ってい
ます。 これは辛い。 でも逆にいうと、言葉は悪いけど
自分の好き勝手にできる。 それが正しいんです」
現場を持たない物流会社など要らない
――物流子会社の生き残り戦略としてもMBOは有力
な選択肢です。 今後も増えるとお考えですか。
「絶対に増やすべきだね。 ベンチャーによる起業と、
MBOで経営者に責任を持たせて企業を活性化する
のは、日本の産業に対する大きな貢献です。 MBOで
はある種のオーナー的な経営者が生まれる。 プレッシ
ャーもあるけど、楽しいし、見返りはサラリーマンより大きい。 そうやって企業改革を進めるべきなんです」
――しかし業務に御社のような強みを持たず、単に親
会社の物流を管理してきた子会社には難しいのでは?
「そりゃダメですよ。 実際の戦力をもたない物流会
社など話になりません。 ノウハウというのは現場にあ
るものです。 現場を持たないというのは、ノウハウが
無いということです。 その部分を持たずに調整と企画
だけをしている会社など論外です」
「一般的な物流業務では、標準作業は八割で、残り二
割は異常な作業です。 うちなんかの場合は三割が異常
になっている。 こうした事態に対して、どうやって処
理していくか、どうやって標準化していくかがキーな
んです。 現場の運営を他者にまかせていたら、こんな
こと分かりっこない。 無理ですよ」
特集
いわした・よし1944年生まれ、67年立教大
学経済学部卒業、同年日産自動車に入社、生産
管理部門に10年間在籍し海外部門へ異動、97
年取締役、99年取締役上席常務、2000年6月
日産陸送社長、2001年5月MBOを完了、同年
6月に日産陸送からゼロに商号変更
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第1ステージの構造改革(〜株式上場まで)
ISO9001
企業理念・ビジョン・行動指針の制定
ゼロプロジェクト(意識改革=業務プロセスの抜本的改革)
上場準備プロジェクト
金の流れ正常化プロジェクト
※ゼロの社内資料より
〜2002年12月
〜2002年4月
〜2004年12月
〜2003年6月
〜04年
12月
〜03年
6月
〜06年
6月
〜03年
6月
〜03年
7月
〜03年
3月
2005年中頃の株式上場を目指して社内改革を進めている
ビジョンを“土台”として複数の“柱”を立て、
上場準備プロジェクトなどの“屋根”を支える
横浜の本社ビルの壁面に大
著された社名とロゴマーク
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